平成18年4月号
心に因をいただける子に
園長 西本 照真
新入園のお子さまをお迎えし、本園にも本格的な春がめぐってきました。新しい年中さん、年長さんとともに、480の瞳が春陽に輝きはじめています。「青色青光、黄色黄光」、一々の瞳がそれぞれの色に輝き光を放ち続ける一年であってほしいと思います。
『父母恩重経』というお経には、十種の親の恩が挙げられています。一、私を身ごもり、出産まで育てて下さった恩。二、命をかけて私を産んで下さった恩。三、私が無事に産まれると、出産の苦しみを忘れて喜んで下さった恩。四、自分がひもじい思いをしても、私には美味しいものを食べさせて下さった恩。五、オネショで濡れた私の布団を自分の布団と取り替えて寝て下さった恩。六、私のお腹がすくと、夜となく昼となくお乳を与えて下さった恩。七、私の汚れ物を厭わず洗濯して下さった恩。八、私が遠くに旅立っても、いつも想って下さった恩。九、私のためには自分が悪をなすことも恐れず育てて下さった恩。十、百歳になっても八十歳の私のことを心配して下さった恩。
幼稚園への入園は人生最初の旅立ちともいえますから、上記の十種の恩の中では第八の恩に相当するかと思います。園門で涙ながらに我が子を送られる姿を目にすると、親の願いの深さを感じます。これから園生活を送る中で、毎日送り迎えをして下さる恩、お弁当を作って下さる恩、運動会などの行事に一緒に参加して下さる恩、「お利口だったね。よく頑張ったね」と褒めて下さる恩、一生懸命働いて下さる恩、数え切れない恩を「私」はいただくことになります。
「恩」という漢字は、「因」と「心」から成ります。恩は売るものでも与えるものでもありません。「私」がいただき、やがて気づいてゆくものです。今の「私」を成り立たしめている無数の因縁を心で深く受けとめ、喜び感謝できる人間へ、「おとうさま、おかあさま、仏さま、ありがとうございます」の心が園生活の中ですこやかに育まれていくことを願っています。
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平成18年5月号
生きている証
園長 西本 照真
週に一度の木曜日のお朝拝も、今の時期は年長と年中だけが参加します。今日は、年長さんと年中さんだけだから、思いっきり難しい話をします。わかるかどうか、よく聴いていてください。今日のお話は、「生きている証(あかし)」についてです。今朝、あさご飯を食べた人?ハーイ!ウンチに行った人?ハーイ!元気に幼稚園に来られた人?ハーイ!そうです。ご飯を食べたのも、ウンチに行ったのも、元気に幼稚園に来られたのも、みんな生きていた証です。ああ、生きているなと感じられるしるしが、生きている証です。
生きていると楽しいことやうれしいことだけじゃなくて、悲しいことや苦しいこともあるでしょう。お友達とケンカをしたり、お母さんに怒られたり、病気になって熱を出したり・・・。それもみんな生きている証です。
私たちは、毎日、生きている証を積み重ねて生きています。今日、お家に帰ったら、二つのことをしてみて下さい。一つは、お父さんとお母さんに、「今日、生きていた証は何?」と尋ねてみて下さい。美味しいお弁当を作って下さることも、泥んこまみれの園服を洗濯して下さることも、一生懸命働いて下さることも、お父さん、お母さんの生きている証です。二つ目は、夜、布団に入って寝るときに、「今日、一日、生きていた証は何だったかな?」と考えてみて下さい。幼稚園でお友達と楽しく遊んだことがいっぱい思い出され、ああ、良い一日だったなと思えるといいですね。今日の園長先生のお話はこれで終わります。難しい話をしたけど、わかりましたか?ハーイ!
お朝拝が終わった後、「生きてるあたし、生きてるあたし」とつぶやいている子がいたそうです。なるほど、すばらしいなあ、と思いました。生きてる証は、生きてるあたし。大型連休が始まります。年長さんが作成した鯉のぼりのごとく、五月の風の中で生きている証をたくさん積み重ねて、連休明けに元気に登園してほしいと思います。
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平成18年6月号
心の窓を開く挨拶
園長 西本 照真
何の小説だったか、記憶が定かではありませんが、挨拶もしなくなった反抗期の子どもに母親が「おはようくらい言いなさいよ」と怒鳴ったら、「なぜおはようと言わなきゃいけないんだ」と言い返されて、とっさに返事ができなかったという場面がありました。父親が答えます。「寝ているときは一人ひとりが個別な世界にいるが、目を覚まして起き出すと、家庭での生活に参加することになり、家族としての役割を分担しあう世界がはじまるんだ。自分の心の窓を押し開き、他者との関わりの世界に自己を開放するために、おはようと挨拶するんだ」
家族、幼稚園、職場など、自分がこれから参加しようとする社会単位とその構成員に対して、私は心の窓を押し開いて、あなたとコミュニケーションする準備ができています、ということを相手に伝える動作・言葉が挨拶です。それによって、自らもスイッチを入れ、相手にもこちらのスイッチが入ったことを確認してもらうのが、おはようやこんにちわの挨拶なのです。
この「挨拶」という言葉、もともとは仏教の用語です。禅の修行者が指導者に問いをもちかけて答えを求めること、あるいは逆に指導者が修行者と問答をしてその力量を測ること、これを挨拶すると言いました。真実を求めて相手に切り込んで、真剣勝負の人間的関わり合いをすることが挨拶だったのです。「挨」も「拶」も原義は押し開くですから、相手とのかかわりを求めて、自分の心の窓を押し開くのです。
園庭門での朝の挨拶の時、姿勢を整え、お互いに目と目を見合わせて、その瞬間、お辞儀をし、再び目と目を合わせます。挨拶の前に「はい、どうぞ」と言わなくても、阿吽の呼吸で挨拶が始まり、ピシッと決まると、大変、気持ちがいいものです。子どもたちは3年間で約1000回の挨拶をします。1000回目の挨拶がピシッとかっこよく決まることを願いながら、園門に立っています。
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平成18年7月号
夢を描くカンバスを
園長 西本 照真
6月28日は武蔵野女子学院の創設者、高楠順次郎先生のご命日でした。1945年6月28日に、80歳で亡くなられました。学院ではこの日を雪頂忌とし、高楠先生を敬慕し、学祖の願いを改めて思い起こす日としています。「雪頂」とは、高楠先生が書を書かれる時に使われていた雅号で、真白き雪を頂くヒマラヤのことです。子どもたちが12月に発表会を行う「雪頂講堂」も、先生の雅号からつけられました。高楠先生は、ヒマラヤの登頂をめざすがごとく、人格の完成という高き理想を掲げて歩むことを大切にされました。
お朝拝の日に、高楠先生の等身大の絵(仏教文化研究所学生作)を見せて、「この方は誰でしょう?」と尋ねると、「偉い人」、「昔のお坊様」、「親鸞さま」など様々でした。「この方は高楠順次郎先生です。高楠先生はこの学校、幼稚園を創ってくださった立派な先生です。みなさんのおじいちゃんやおばあちゃんが生まれられた頃、80歳で亡くなられました。わかりやすく言うと、幼稚園のおじいちゃんです」
今日では、生きている私たちの方から仏さまや亡き人にお願いをする「おねだり」の宗教が花盛りです。しかし、仏教の本義は、仏さまの願い、仏となられた亡き人の願いを聴き、その願いの中に生きることにあります。高楠先生もかつてルンビニ幼稚園の園長をなさっていましたが、子どもたちに何と語りかけられていたのでしょうか。ヒマラヤを理想とされた先生ですから、「大きな気高き夢を抱きなさい」とおっしゃったのではないかと思います。大きな夢を描くには大きなゆったりとしたカンバスが必要です。夢を描く環境は充分に整えつつ、子どもの代わりに描いて色づけすることは控えめにする。子育てにおいて中道を実践することは、なかなか難しいなと思います。
いよいよ7月、夏休みも真近です。自由にのびのびと夏休みを過ごし、大きな夢が膨らんで、みんな元気に9月が迎えられることを願っています。
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平成18年9月号
日常と非日常
園長 西本 照真
真っ黒に日焼けした手が大きく弧を描いてそそり上がり、ほんの一瞬静止した後、力強く振り下ろされる。夏休みのわずか一ヶ月ほどの間に、シャッタースピードを速くせしめたのは、時間の経過なのか、日常を超えた経験なのか。夏季保育でプール遊びを楽しむ子どもたちの様子に目を見張りながら、子どもの成長と時間の関係について思いをめぐらせました。
子どもの成長を育むのに時間の経過が必要であることはいうまでもありません。年少であればプール遊びの目標は思う存分水遊びを楽しむことです。年中になると顔を水につけたり、バタ足の練習をはじめます。年長は自分なりの目標をもってプール遊びに取り組みます。個人差もありますが、学年ごとの層としての違いは歴然としています。子どもにとって大事なのは不相応の課題を次々にクリアーしていくことではなく、発達年齢にふさわしい課題にじっくりと取り組み、底力を養うことです。「つま立つ者は立たず、跨(はだ)かる者は行かず」(つまさきで背伸びをして立つ者は、長くは立てない。大股で足をひろげて歩く者は、遠くまでは行けない)と『老子』も言っています。
同時に、子どもの成長を目の当たりにして、一瞬に永遠の時が収め込まれたのではないかと思うほど、驚かされることもあります。年長のお泊まり会では、「幼稚園に入ってから一番短くて長い、長くて短い一日です」と話しましたが、幼稚園に泊まるという非日常的な経験、その短い時間の中に込められた無限の経験が、一夜明けた子どもたちに今まで見られなかったような自信と輝きに満ちた表情を生み出したのでしょう。
それぞれの夏休みを終え、それぞれの非日常的経験を持ち寄って、みんな元気にそろって2学期が始まりました。遠足、運動会、発表会など楽しい行事が目白押しです。「日々是好日」。日常の生活と、その中につまった数々の非日常を経験する喜びを大切にしたいと思います。
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平成18年10月号
入園・卒園・帰園
園長 西本 照真
4月に入園して半年、年少の子どもたちの成長には目を見張るものがあります。未就園のお子さんの体験入園の様子を見て、なおさらその思いを強くしました。入園当初、ほとんど会話もなかった子、ジャングルジムの1段目まで恐る恐る登っていた子が、今では一番上からはるかに私の頭頂を見下ろして「ヤッホー、えんちょうせんせーい」と元気に声をかけてくれます。
この子たちがあっという間に学年を重ね、卒園に至る日も、大人の感覚からすればそう遠くないことでしょう。けれども、瑞々しい感覚で過ごす子どもたちにとっては、一日さえも長久の時と感じているはずです。降園後、次々と紡ぎ出される我が子の言葉に、親御さんも子どもが園で過ごした時の長さを感じられるのではないかと思います。
3年間の園生活がその後の人生にどれだけの影響を与えるかは未知数ですが、40年近くの時を経て園に帰ってくる卒園生もいます。8月の末に開かれた「もう一つの同窓会」は中学生以上が参加しました。母となり、その子がまた園児となり一緒に参加した卒園生、幼稚園時代の思い出が縁となり我が園に先生として帰ってきた卒園生など、たくさんの卒園生が帰園して、恩師の先生方とともになつかしい一時を過ごしました。
何年、何十年の時を経ても帰る場があるというのは、実にしあわせなことだと思います。人間、誰しも、帰りたくない場には帰りません。我が家にせよ、故郷にせよ、幼稚園にせよ、帰りたいなと思える場を心の中に携えているならば、たとえその場から遠く離れていようとも、その人の人生は安らかで、なおかつ力強いものとなるのではないでしょうか。
実りの秋、行事も盛りだくさんの園生活の中で、子どもたちが豊かな成長を遂げ、楽しい思い出をいっぱいに作り、心の中にかけがえのない帰る場を育ててほしいなと思います。
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平成18年11月号
いのちのバトン
園長 西本 照真
秋の最大の行事、運動会が無事終わりました。子どもたちが元気にのびのびと参加している様子をご覧になり、育ちゆく力と無限の可能性を実感されたのではないかと思います。父母の会のみなさまには、準備の段階から当日までいろいろとご協力を賜りました。おかげさまですばらしい運動会となりましたことを感謝し、厚く御礼申し上げます。
スポーツの秋、食欲の秋、天高く馬肥ゆる秋、気持ちのよいこの季節は、一方で大自然のいのちの営みの力を強く感じさせる時期でもあります。各クラスで飼っていたカイコも、繭を破ってカイコ蛾となるや、雌雄交尾し、たくさんの卵を産み落とすと、まもなく力尽きてゆきました。えさを食べる口さえもなく、次世代へといのちのバトンを伝えることを自らのいのちの営みとして生きる姿に、子どもたちは大きな衝撃を受けたようです。
相田みつをさんの詩に、「自分の番、いのちのバトン」という詩があります。「父と母で二人、父と母の両親で四人、そのまた両親で八人。こうして数えてゆくと、十代前では千二十四人、二十代前では・・・?なんと百万人を越すんです。過去無量のいのちのバトンを受けついで、いまここに自分の番を生きている。それがあなたのいのちです。それがわたしのいのちです」
運動会の年長のリレーはとても感動的でした。転んだり、バトンが落ちたり、いろいろなハプニングがある中で、何度も順位が入れ替わりましたが、自分の番が来てバトンを受け継いで走っている時は、みんなが真剣そのもの、全力を出し切っていました。人生というトラックは、人によって長短があり、また山あり谷ありですが、無量のいのちの連鎖の中からいただいたバトンを大切に、しっかりと握りしめて、走ってほしいと思います。そして、自らが走っていることを深く自覚し、また他者が走っていることにあたたかく共感しうる人間に育ってほしいと思います。
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平成18年12月号
走るな!頑張るな!という応援
園長 西本 照真
ある日のお朝拝で、子どもたちに尋ねてみました。バトンリレーで、自分の番が来て一生懸命走っている時、みんなが「走るな!頑張るな!」と応援したらどう思いますか?「いやだー」という声が一斉に返ってきます。「そうだよね。最近、お友だちに対するいじめが大きな問題になっています。お友だちを仲間はずれにしたり、いやがっているのに乱暴なことをしたり、心の傷つくことを平気で言ったり、その人がいないところで悪口を言ったり、そういうことをするのはリレーで一生懸命走っている人に「走るな!頑張るな!」と応援することと同じことです」
「みなさんは、仏さまのやさしい心をいただいていますから、お友だちと仲よくできるやさしい心をもっていると思います。人をいじめるということは、いのちのバトンを握って一生懸命走っている人に、「走るな!頑張るな!」と応援することになるんだということを、これからもずっと忘れないでいて下さい。」
本園では、教育目標の一つに「友だちと仲よくできる子どもに」と掲げています。願わくは万人の友でありたいというのが、仏さまの願いです。「僧(サンガ)」というのはお坊さんの代名詞になっていますが、本来は仏さまの願いに導かれたよき友の集いという意味です。「どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである」(『感興のことば』第25章「友」)本園に集う子どもたちが、それぞれの個性を開花させつつ、同時によき友の集団として力を合わせて全体として伸びてゆくことを願っています。
「助けてくれる友人、苦しいときにも楽しいときにも友人である人、自分のためを思って話をしてくれる友人、思いやりのある友人、これが本当の友人である」(「シンガーラへの教え」)この一年、よき人々との交わりに感謝しつつ、年の瀬を迎えたいと思います。
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平成19年1月号
四本の焼き芋
園長 西本 照真
幼い子どもたちの心には仏さまが宿っているのではないかと思うほど、やさしい純な心にふれることがあります。ある日のお朝拝で、過去の悲しい出来事について話しました。昭和19年、武蔵野女子学院高等女学校5年生の生徒たちは、学徒動員として中島飛行機武蔵製作所で飛行機の部品づくりに従事していました。12月3日の午後2時半ごろ、突如空襲があり、急ぎ母校に帰って防空壕に避難した生徒4人が、直撃弾を浴びて、うら若きいのちを散華してしまったのです。この話が子どもたちの胸にどのように響いたか、確認するチャンスもないまま、私は話をしたことさえも忘れていました。
北風が吹きつける寒い日、園児たちは園庭で落ち葉を焚いて焼き芋を作っていました。焼き上がった芋をフウフウ吹きながら美味しそうに口にほおばる姿を、私は職員室からほほえましく見ていました。と、一人の年中の女の子が、職員室のガラス戸の前に立ち、「園長先生、これ、おねえちゃんに・・・」と言い、小さなかわいらしい焼き芋を差し出しました。「えっ?」言葉として発したかどうかは覚えていませんが、私には「おねえちゃんに」という意味がすぐには理解できなかったのです。手に握られた焼き芋が4本であるのを確認して、ようやく合点がいきました。ああ、なんとやさしい心だろう、心動かされつつ、雪頂講堂の前にある散華乙女の記念碑にお供えしました。
後日、お母さんに話すと、「あの子は、お芋が大好きなんですよ。雨で何度も延期になって、ようやくできたので、うれしかったんでしょう」と言っておられました。大好きな焼き芋を、自分だけで食べないで、戦争で無惨にも亡くなっていったおねえさんたちにもあげたいという気持ちには、確かに仏さまのお慈悲の心が届いているなあ、と慶びました。 昨年はずいぶん悲しいニュースがありました。「すべての生きものにとって、いのちは愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」という仏さまのことばを噛みしめつつ、この一年が根底においてともに慶べる年になればと思います。
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平成19年2月号
輝ける鬼であろう!
園長 西本 照真
世の中にはいろんなオニがいます。「・・・しちゃダメ!」オニ、「こらー!」オニ、「いい子にしてなさい」オニ、「忙しいんだから」オニ、「早く寝なさい」オニ、「ああしなさい」オニ、「こうしなさい」オニ、「もっと・・・」オニ、「少しは・・・てよ!」オニ、「・・・なら知らない」オニ。「のに」オニ、「でも」オニ、「だって」オニなどなど、数え上げればきりがありません。
オニの特徴。その1.なろうと思ってもなかなかなれるものではない。その2.なるまいと思っても思わず知らずなっていることが多い。その3.私は至らぬオニでございましたと反省するオニは少ない。その4.無くせるオニ性はなくすよう努力し、無くせないオニ性は味わう以外にはない。その5.子ども
オニは親オニを映し出す鏡である。その6.わざわざオニになる心やさしい大悲のオニもいる。
子どもたちが作った鬼のお面は実に多彩です。赤鬼、青鬼、緑鬼、1本角の鬼もいれば、3本角、4本角もいます。どんなに恐い鬼を描こうとしても、純粋無垢な清浄性が現われ出てきて、ユニークなかわいらしい鬼に仕上がっています。どれ一つとして同じ鬼はいないことに、個性の輝きとかけがえのなさを感じます。親オニも、子オニも、先生オニも、自身のオリジナルなオニ性を見つめつつ、気づきつつ、みんながそれぞれに輝けるオニの世界でありたいものです。
最後に、園長オニの大好きな金子みすずさんの「私と小鳥と鈴と」という詩をご紹介しましょう。
「私が両手をひろげても お空はちっとも飛べないが 飛べる小鳥は私のように 地面(じべた)を速くは走れない。 私がからだをゆすっても きれいな音はでないけど あの鳴る鈴は私のようにたくさんな唄は知らないよ。 鈴と 小鳥と それから私。みんなちがって みんないい。」
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平成19年3月号
喜ぶべき心
園長 西本 照真
いよいよ平成18年度も締めくくりの月を迎えました。年少さんは、早いもので入園してもう一年が経ちます。園門のところで○○ちゃーんと友だちを迎える光景を見ると、一人の世界から友だちとの楽しみの世界へ、この一年でずいぶんと世界が広がってきたなあ、と感じます。一方、年中さんは、すでに年長の風格が備わり始めています。世界に働きかけていく主体となる一本の芯のようなものが形成されつつあるのでしょう。ともすれば新入園の年少、卒園の年長の影に隠れがちですが、3年間の中でもっとも大事な時期は年中ではないかとさえ思われます。
そして、年長さん、3年間過ごしてきた学舎からいよいよ卒園です。「いつのことだか思い出してごらん♪、あんなこと、こんなこと、あったでしょう♪」本人も、親御さんも、先生も、それぞれ無量の思い、感動の涙で巣立ちの時期を迎えます。園門に立っていると、「おはようございます」という一言の挨拶の中に、言詮しがたい思いが伝わってきます。そして、瞳は未来を見つめる輝きを増し、目に力を感じます。
うれしい、楽しい、悲しいというのは、一時の感情を形容する語ですが、私はむしろ、喜ぶ、楽しむ、悲しむなどの動詞によって生み出される世界を大切にしたい気がします。『歎異抄』には「よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為なり」(深く味わえば喜んでいいはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです)とあります。喜ぶべきことは、そのことを生み出すために働いてきた世界にまでさかのぼってよくよく味わい、じっくりと噛みしめないと、喜ぶべきこととして見えてきません。学年の終了、卒園を控えたこの月が、喜ぶべきことを深く喜べる月になればと思います。
作品展の野原村の世界にすてきな詩がありました。「ひなたぼっこ こねずみしゅん でっかいうちゅうのなかから ちっぽけな こねずみいっぴき みつけだして おでこから しっぽのさきまで あたためてくれるのね ・・・・ おひさま ぼく どきどきするほどうれしい」(工藤直子)