平成20年4月号
因縁和合して花開く
園長 西本 照真
色とりどりの花々が幼稚園をつつみ、木々の若芽が吹く中で、平成20年度がスタートしました。81名の新入園児を迎え、新しい年中さん、年長さんとともに、幼稚園に活気がよみがえってきました。この一年、すべての園児が豊かで安全な環境のもと、健康で伸びやかに成長できますことを心から願っています。
「花の色美なりといえども、ひとり開くるにあらず、春の時を得て光を見る」という言葉があります。『正法眼蔵随聞記』に引かれた道元禅師の言葉です。春になると花々が色美しく咲きほこっているけれども、その美しい花は自分の力だけで開花したのではない。春の季節が到来し、暖かな太陽の日差しとぬるんだ水をたっぷり含んだ豊かな大地の支えがあってはじめて、いのちあるものがそれぞれに固有のいのちの光を放つことができるのです。
一方、中国の唐代に活躍した慧能というお坊さんは次のように述べています。「花の種に生性無くんば、地においてもまた生ずること無し」(『六祖壇経』)どんなに豊かな大地があろうと、どんなに暖かな日差しがあろうと、そこに植わった種自身に芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせてゆく主体的な力が内在していないならば、およそ花という花はみな咲くことなく終わってしまうことでしょう。
子どもたちの主体的な伸びゆく力が因となり、親御さんをはじめご家族のみなさま、幼稚園の先生、多くの方々のかかわりが縁となり、無限の可能性を秘めた子どもたちも開花を準備していきます。同じ日に蒔いた種も、芽を出し、花を咲かせるまでの歩みは様々です。良かれと思って水をやりすぎると根が腐ってしまいます。日が照りすぎると葉が干上がってしまいます。時と機を心得た縁となるということは大変難しいことですが、子どもたちにそなわる因を信じつつ、保護者の皆様方と幼稚園のスタッフが力を合わせてよりよき園づくり、縁づくりにはげみたいと思います。また同時に、子どもたちを最良の縁として、親としての因、教師としての因を実らせていきたいものです。この一年、どうかよろしくお願い申し上げます。
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成20年5月号
休息して生を養う
園長 西本 照真
新入園児の皆さんが入園して3週間、初めての園生活で最初は慣れないことばかりでしたが、少しずつ園の生活に馴染んできたようです。年中、年長さんも一つ上の学年、新しいクラスになりかなり張り詰めていましたが、ようやく落ち着いてきました。
4月が非日常の連続だとすると、5月は日常への移行の月です。非日常の生活では心も身体も緊張していましたが、緊張が緩んでくると逆に心も身体も動き出し、やりたいこと、やりたくないことなど主張がはっきりと表れてきます。場合によってはストレートに出ないこともありますが、子どもの動き出す心の方向をよく見て、ゆったりと受けとめ、大きく包み込むような安心感を与えてあげたいものです。自立を急ぐだけでなく、子どもの要求にやさしく応えてあげることも大切な時期ではないかと思います。
東洋の人は、心の動きを気の変化と連動させてとらえました。「怒れば気上る。喜べば気緩まる。悲しめば気消ゆ。恐るれば気めぐらず。寒ければ気閉づ。暑ければ気泄(も)る。驚けば気乱る。労すれば気減る。思へば気詰る」(『黄帝素問経』)ですから、心と身体を安定させるには、気を整えること、すなわちゆったりと大きく深い息をすることがポイントになります。「息」とは「自」の「心」と書きます。天地自然の中に溢れている外気を自己の内に取り込み、自然と自己を一体化させる営みが息をすることなのです。息(いき)が整うと、心も自ずと「息(やす)」まってくるのです。
また、「休」という字も「人」と「木」から成り立っていることからわかるように、樹木と人間が一つになることが「休(やす)」むことなのです。学祖の高楠順次郎先生も「大自然は人をそだてる」とおっしゃいました。大自然の中に憩い、樹木からの新鮮な空気を身体中にゆきわたらせると、身も心も「休」まり、本来の元気がよみがえってくるのです。
風薫るさわやかな5月の空の下、大自然の中で、元気に泳ぐ鯉のぼりの如く、気を身体中に充たして本来の意味で休息し、いきいきとした生を養いたいものです。
「真人の息は踵(かかと)をもってし、衆人の息は喉をもってす」(『荘子』内篇)
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成20年6月号
子どもの不思議と大人の常識
園長 西本 照真
梅雨入りが間近となってきました。大人にとっては、じめじめとした鬱陶しい季節の到来かもしれませんが、子どもたちにとっては、不思議に満ちたすてきな季節であってほしいと思います。
金子みすずさんが、「不思議」という題の詩を詠んでいます。冒頭には「私は不思議でたまらない、黒い雲からふる雨が、銀にひかっていることが」とあり、いくつかの不思議を挙げた後で、「私は不思議でたまらない、誰にきいても笑ってて、あたりまえだ、ということが」と結ばれています。まさに子どもの不思議と大人の常識とが相反する瞬間です。大人になるということは、本来不思議であるはずのことがいつの間にか常識化され、子どもの頃に不思議であった数々のことが忘却されてしまうことかもしれません。雨降りが続くこの季節は、親の目からすれば、「私は不思議でたまらない、水たまりが大好きな子どもたちが」と詠いたくなるでしょうが、しばし子どもたちの不思議の世界につきあってみられてはいかがでしょうか。
学院内ではアジサイが少しづつ色づき始めました。青やピンク、うすむらさきの花々が銀色に光る雨を心待ちにしています。葉っぱからこぼれ落ちんとして揺れる水玉を急いでのぞくと、色とりどりのアジサイをおさめ込んで燦(きら)めく小さくて大きな世界に出遭うことができます。その世界の不思議を小さな指で突っついている子どもの瞳は、これまた見たこともないような不思議な光を放っています。
その光に出遇うとき、いったい私たち大人は何を常識化してきたのだろうか、と自問したくなります。常識の殻に堅くまもられた眼から世界を見つめることに慣れてしまうと、不思議の世界が見えなくなります。雨にせよ、太陽にせよ、自然の営みは時として猛威をふるうこともありますが、一方で自然のもたらす不思議の世界は恵みの世界でもあります。子どもたちとともに、この季節にしか味わえない自然の不思議と恵みを感じつつ過ごしたいものだと思います。
「無碍光仏のひかりには、清浄・歓喜・智慧光、その徳不可思議にして、十方諸有を利益せり」(親鸞聖人『浄土和讃』)
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成20年7月号
びわよ甘くなれ
園長 西本 照真
♪歩いてゆこう どこまでも くるしくても かなしくても 春が来れば花も咲く♪という歌、大人にも懐かしいこの歌の作者小宮路敏先生をお迎えし、父母の会の教養講座が開かれました。保護者のみなさんと一緒に、童心に返って楽しく歌ったり踊ったり、すばらしい一時を過ごさせていただきました。おかげさまで、その日は心がホカホカと温かい不思議な感じのする一日となりました。「花の香りは、風に逆らっては流れない。しかし、善い人の香りは、風に逆らって世に流れる」という言葉がありますが、小宮路先生の善き香りが心に深くしみ込むようでした。
仏さまは誰にでもできる布施として七種を説かれました。「一には身施、肉体による奉仕である。二には心施、他人や他の存在に対する思いやりの心である。三には眼施(げんせ)、やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心がなごやかになる。四には和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。五には言施(ごんせ)、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。六には牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。七には房舎施(ぼうしゃせ)、わが家を一夜の宿に貸すことである」(『仏教聖典』より)
小宮路先生の眼施や和顔施、言施にふれながら、ご一緒させていただいた昼食のデザートにびわが出されました。年長さんが裏山からもいできてくれたものです。小宮路先生の笑顔がさらにやさしくなりました。とても甘い自然の味でした。子どもたちが甘くなれと思いを込めてびわの歌を歌うと、裏山のびわはますます甘く熟れるのだそうです。
♪びわはやさしい木の実だから、抱っこしあって熟れている
うすい虹あるロバさんのお耳みたいな葉の陰に
びわは静かな木の実だから、お日にぬるんで熟れている
ママといただくヤギさんのお乳よりかもまだ甘く♪ (作詞=まど・みちお)
びわに子どもたちの思いが届くのと同じように、やさしい、あたたかい子どもになってほしいというお父さまやお母さまの願いもきっと子どもたちに届いてゆくことでしょう。
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成20年9月号
いのちの色かがやく秋に
園長 西本 照真
暑かった夏休みが終わり、いよいよ2学期がスタートしました。遠足、運動会、いもほりなど、行事も盛りだくさんの学期です。子どもたち一人ひとりのいのちの色がかがやく秋になることを願っています。幼稚園としても、園児の健康と安全に十分配慮しながら、子どもたちのよりよい成長をめざして保育に力を尽くしてまいりたいと思います。
『阿弥陀経』というお経に、極楽浄土の蓮の花について説いた一節があります。「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」(青いいのちの色をもつ蓮は、青いいのちの光を放っている、黄色いいのちの色をもつ蓮は、黄色いいのちの光を放っている、・・・)それぞれのいのちが輝きあい、響きあう世界のすばらしさを讃えているのです。
私たちのいのちは、そのはじまりから終わりまで、刻々といのちの色を変化させながら、その時々にその存在に固有のいのちの色を放っています。泣いている私、笑っている私、怒っている私、ほほえんでいる私。私が今、何をしていても、どういう状況にあっても、そのいのちの輝きは絶対固有なものです。宇宙の開闢(かいびゃく)以来、135億年の時の流れの中で、今というこの瞬間に、親として、子として、教師として、それぞれに固有な真っさらないのちを恵まれて、互いのいのちに出会っていることに大いなる不思議を感じます。子のいのちによって親のいのちは輝きを増し、親のいのちによって子のいのちも輝きを増す、いのちが重々無尽に響きあう世界に生きています。
この夏、有国智光さんの『遊雲さん 父さん 小児がんを生きたわが子との対話』(本願寺出版社)という本を読みました。小児がんで15歳の遊雲さんを亡くされた有国さんが、「今」と題した文章を載せておられます。「今とは全体なのだ。今のほかはないのだ。そんな当たり前のことを喜ぶのに、何と深いめぐみの要ることか。(中略)変わろうとして達成できずに苦しまなくても、みなぎり育ってくるものを待てるようになればよい。続けたいものが終わっていくのをはかなむよりは、静かにくつろいでいけるおおらかさを覚えよう。今とはよろこびなのだ。今とはかなしみなのだ。今、私は如来と出会うのだ」
幼稚園がすばらしい秋色に染まりますよう、皆様のいのちの色とかがやきを添えていただければと思います。
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成20年10月号
秋が飛んでいる
園長 西本 照真
「今朝、グランドを歩いていたら、秋が飛んでいました。さて、何が飛んでいたのでしょうか」「バッタ」「トンボ」「飛行機」「秋」子どもたちは飛行機にも秋を感じるのかと感心しました。「秋が飛んでいる」「何が飛んでいる」「秋が飛んでいる」このやり取りも大変気に入りました。
「ゆうべ、園長先生は秋をいただきました。さて、何をいただいたのでしょうか」「栗」「梨」「ブドウ」「マツタケ」松茸に秋を感じるとは、多少、羨みの気持ちもありましたが、秋の味覚をそれぞれに楽しんでいるようです。「正解は、秋刀魚でした」「あっ、私も食べた」「お魚大好き」「私はお肉が好き」「あのね、きのうね、お母さんがね、ハンバーグつくってくれたの。とってもおいしかったよ」食欲の秋も顕在のようです。
秋は、五感を働かせて季節を感じるには、一番よい時期かもしれません。幼稚園の周り、学院の中は、豊かな自然に囲まれて、秋に溢れています。もうじき、キンモクセイも香り始めます。ススキも穂をのばしてきました。どんぐりや栗拾い、バッタ採り、紅葉狩り、焼きいもなどなど、楽しいことがいっぱいです。秋を視、秋を聴き、秋を嗅ぎ、秋を味わい、秋に触れて、季節の恵みをまるごと体感してほしいと思います。五感が五感にとどまるのであれば、動物と同じことです。五感を通じて第六感の心が豊かに育っていくことが人間としての成長に大切なのだと思います。
武者小路実篤さんの詩に「柿と柚子(ゆず)」という題の詩があって、およそ次のような内容であったと記憶しています。「柿と柚子、同じ風雨にさらされて、なんじは赤く、われは黄なり。なんじは甘く、われは酸っぱし。人、なんじを賞味すれど、われもまた捨てず」遠足や運動会などの行事が続きますが、子どもたちが元気にのびやかに園生活を楽しむ中で、それぞれがその子らしい秋の色に染まっていくことを願っています。
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成20年11月号
母の願いの中に
園長 西本 照真
運動会の日の夕方、園庭の柿の木にお腹を大きくした一匹のメスのカマキリがいました。運動会の余韻を感じながら、そのカマキリを見ていて、ふと、下村湖人の「おかあさんのかんじょう書」という話を思い出しました。少し長くなりますが、ご紹介しましょう。
「進という少年が、学校へ出かけるとき、前夜書き付けた紙片を二つに折って、お母さんの机の上にそっとおいて、学校へ出かけていきました。紙片には、次のように書いてありました。『かんじょうがき 一 市場にお使いに行きちん 十円、一 お母さんのあんまちん 十円、一 お庭のはきちん 十円、一 妹を教会につれて行きちん 十円、一 婦人会のときのおるすばんちん 十円、ごうけい五十円、進、お母さんへ』
進のお母さんは、これをごらんになってニッコリなさいました。そして、その日の夕食のときには、今朝のかんじょう書と、五十円が、ちゃんと机の上にのっていました。進は大喜びで、お金を貯金箱に入れました。
その翌日です。進がごはんを食べようとすると、テーブルの上に一枚の紙があります。開いてみると、それはお母さんのかんじょう書でした。『お母さんのかんじょう書 一 高い熱が出てハシカにかかったときの看病代 ただ、一 学校の本代、ノート代、えんぴつ代 みんなただ、一 まいにちのお弁当代 ただ、一 寒い日に着るオーバー代 ただ、一 進さんが生まれてから、今日までのおせわ代 みんなただ、ごうけい ただ、お母さん、進さんへ』
進は、これを見たとき、むねがいっぱいになって、大粒の涙がもうすこしでこぼれそうになりました。そして、泣きたくなったのをぐっとこらえました。そして、これからは、どんなにお手伝いしても、お金はいらないと思いました。だいすきなお母さんのためには、自分のできることなら、何でもしてあげようと思ったからです」(一部改稿)
私はずっと母の大いなる願いの中に生かされてきたのだ、ということに気づかされた時、子どもたちのいのちの根っこはさらに強く深くなっていくのではないかと思います。
「あたかも、母がそのひとり子を、命に代えて護るように、生きとし生けるもののうえに、限りなき慈しみの思いをそそげ」(『スッタニパータ』)
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成20年12月号
しあわせの方程式
園長 西本 照真
日めくりカレンダーも余すところあと31枚となりました。めくるのを忘れて何日分かいっぺんにめくることもしばしばですが、過ぎゆく日々がいったいどこに走り去ったのか、記録も記憶もしないうちに年月がどんどん過ぎてゆきます。書店には『年を取るほど時間は速く進む』とか『大人の時間はなぜ短いのか』という題名の本が売られていますが、著者に教えを請うまでもなく、時間が短くて速く進むのは大人の生活実感といえます。
せめて今年最後の月だけは、師走の慌ただしさに振り回されることなく、心を落ち着けて穏やかに過ごしたいものだと思いつつ、12月1日の日めくりに目をやると九條武子夫人(1887-1928)の言葉に出会いました。
「自分の生命を打ちこむことのできる仕事を持っている者は幸福である」
仕事も、子育ても、日々の送り迎えやお弁当作りも、みんな自分の生命を打ちこむことのできる「仕事」といえましょう。親は、打ちこむに値するかどうか、あらかじめ秤にかけた上で子育てをしているわけではありません。幸福は求めるものではなく、いただくものだと言われますが、九條夫人の言葉は幸福の方程式がどんな時にも100%になっていくような仕事のとらえ方、人生の歩み方を示唆してくださっているのではないかと思います。
さて、子どもたちの仕事はといえば、言うまでもなく遊ぶことです。発表会の準備もいよいよ佳境に入ってきました。一人ひとりの生命を打ちこみ、みんなの生命を一つにして、一所懸命に練習に励んでいます。きっとその中に子どもたちの幸せがつまっていることでしょうし、それを応援し、支えてくださる親御さんの幸せもその間近にあることでしょう。
冴えわたった冬の夜空を眺めつつ、いろんなことのあったこの一年をゆっくりとふり返ってみると幸せの方程式が見えてきます。そんな一時にぴったりの歌をご紹介しましょう。
「聖夜」 九條武子作詞、中山晋平作曲
一.星の夜空の うつくしさ 二.ガンジズ河の 真砂(まさご)より
たれかは知るや 天(あめ)のなぞ あまたおわする ほとけたち
無数のひとみ 輝けば 夜ひるつねに 守らすと
歓喜(かんぎ)になごむ わがこころ 聞くになごめる わがこころ
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成21年1月号
最高の牛の年に
園長 西本 照真
新しい年がスタートしました。この一年、幼稚園の子どもたち一人ひとりのいのちが輝き、豊かに成長していくことを願っています。
今年は丑年ですので、牛にちなんだお話を一つ二つご紹介しましょう。仏さまはガンジス河の砂の数よりたくさんおられるといいますが、それぞれの仏さまには固有の名前がついています。お釈迦さまは若き日の名前をゴータマ・シッダールタと言われました。ゴータマは姓で「最高の牛」、シッダールタは名前で「(願いが)成就した」という意味です。王族であった釈迦族は高貴な身分を表すゴータマを姓として名のっていたのでしょう。さとりを開かれて文字通り「最高の牛」となられた釈尊は、ゴータマ・ブッダと呼ばれました。昨年は世界的な金融危機をはじめとして大きな変化の年でした。必ずしも「最高のねずみ」の年といえなかった方もおられるかもしれませんが、今年こそは与えられた今のいのちが心から喜べる「最高の牛」の年になればと思います。
いま一つ、私の気に入っている牛の話です。中国四川省大足の宝頂山に巨大な石窟群があります。宋の時代を中心に数々の石像が彫られており、さながら仏教テーマパークといった感じです。その中に童子が牛にまたがってゆったりとくつろいでいる石像があります。自己の成長過程を十枚の牛の絵になぞらえて描いた「十牛図」の一場面を彫ったものです。最初、牛の足跡を見つけた童子は牛を探し求め、ついに牛のしっぽを見つけ、牛と格闘し、とうとう牛と一体になってその背中にゆったりとくつろぎます。牛をつれて家に帰った童子が心満ち足りて月を眺めていると月そのものになります。いったいどのくらいの年月が過ぎたのか。最後の一枚では、町の中で一人の老人と一人の童子が出会う場面が描かれています。町に入り人々との交わりに生きる中に真実の自己が発揮されてくるというのです。本当の自分らしさを発揮した生き方をどこに見いだすか。あるべき自己を求め、必死に格闘し、ゆったりと安定した「最高の牛」に出合い、諸関係の総体として刻々と現成してくる日常の世界が彩り豊かによみがえってくる一年になりますように。
------------------------------------------------------------------------------------------------
平成21年2月号
生きることと死ぬこと
園長 西本 照真
先日、園庭門での朝のお迎えを終え、寒さの中元気にお正月遊びに興じる子どもたちに目を細めていた時、一人の年長さんが折り入って話があるとやってきました。日の当たるところでゆっくり話しましょうと連れだって日なたに行き、いざ話を聞いてみると後生の一大事を単刀直入に問うてきたのでした。「園長先生、夜寝る時に死ぬのがこわくなるのだけど、どうすればこわくなくなるのですか」
予期せぬ問いに、すぐに答えが出てきません。「そうなんだ。○○君、死ぬことがこわくなったの。園長先生も小学生の頃、同じように死ぬのがこわいなあ、と眠れないことがあったよ。○○君は今、年長さんだけど、『死ぬのがこわい』という気持ちをもったということは、園長先生よりも早くおにいさんになってきているということじゃないかなあ」動物や昆虫を飼ったりする中で、他者が死ぬ存在であることを学び、深い関係性を有する二人称の相手に対しては喪失の悲嘆を味わう経験を積み重ねていきます。しかし、一人称の自分自身が死ぬ存在であることが認識できるためには、さらに確固とした自我意識が形成されてこなければなりません。一人称の自己も二人称と同じく死ぬ存在であるということが推知されるということは、人間として着実に成長してきている証といえます。
「お父さんやお母さんは何ておっしゃっているの」「死んだら仏さまのところに帰っていって、みんなひとつの世界の中で生きるのだから、こわくないんだよって」「そう。園長先生もそう思うよ」死を関係性が永遠に断絶してしまうものとして捉えるか、新たな関係性が開けていく場として捉えるか、死に向き合い、生に向き合う姿勢がずいぶんとちがってきます。「園長先生も今でも死ぬのがこわいし、死ぬまでこわいかもしれないけど、一生懸命生きていれば、生きることと死ぬことが一つの大切な意味をもっていることがだんだんわかってくるかもしれないと思って、一生懸命生きることにしているんだ」
生が充実してくれば、死が充実してくる。死が充実してくれば、生が充実してくる。二月十五日の涅槃節を前に、生と死の意味について考えさせられた朝の一時でした。