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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第27回 真宗学通信教育部 人間科学部 人間科学科仏教学専攻 前田 壽雄 教授

生き方として活かされる親鸞の教え

通信教育部 人間科学部 人間科学科仏教学専攻 教授

前田 壽雄Maeda Hisao

龍谷大学文学部真宗学科卒業。龍谷大学大学院文学研究科真宗学専攻博士課程単位取得。龍谷大学文学部非常勤講師、浄土真宗本願寺派総合研究所上級研究員、浄土真宗本願寺派東京仏教学院研究科講師、駒澤大学仏教学部非常勤講師などを経て、2022年より現職。武蔵野大学仏教文化研究所研究員、武蔵野大学能楽資料センター研究員。

パンデミックやウクライナでの軍事衝突をきっかけに、今、多くの人が生きることやいのちとは何かをあらためて見つめ直しています。いのちの尊さやどう生きるべきかを考える上で、一つの道しるべになり得るのが仏教です。浄土真宗の教義研究を専門とし、仏教の教えが「生き方を考える手がかり」となるよう、研究成果を学生や市民にわかりやすく伝える活動にも力を尽くしている前田壽雄教授の研究をご紹介します。

研究の背景

親鸞があらわした教えを研究する真宗学

私が専門とする真宗学とは、親鸞が開きあらわした浄土真宗を研究対象とする学問をいいます。浄土真宗と聞くと「仏教の一宗派の名前」という捉え方が一般的だと思いますが、実はそうではありません。浄土真宗とは“「往生浄土」を説く「真実」の教え”を意味し、その教えは、師である法然が説いた浄土宗の教えを親鸞が受け継ぎ、自分自身を通して体系化したものです。私は、親鸞の教義のみならず、師・法然やほかの門弟たちの教義研究を専門とし、親鸞の主著である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』、親鸞がよりどころとした浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)などを原典に研究活動を行っています。

研究について

法然から親鸞や門弟への教義継承を研究

法然とその門弟の教義研究の中で、現在は二つのテーマに取り組んでいます。一つは法然から親鸞への教義の継承と展開、もう一つは、同じ法然を師に持つ門弟たちの教義展開と比較です。 一つ目の法然から親鸞への教義継承については、法然の主著である『選択本願念仏集』から親鸞の『教行信証』へ教義がどのように受け継がれ、展開されているかを課題としています。親鸞は師である法然が説いた教えを受け継ぎながら、その教えから独自の教義を構築しています。元々法然はどのようなことを説き、そのどの部分を親鸞は継承し、どう発展展開させたのかに目を向けた研究です。また、法然の教えは親鸞だけに受け継がれたわけではありません。法然は、自分の教えを正しく受け継ぐことができると認めた門弟だけに『選択本願念仏集』を書き与えましたが、門弟によってその受け継ぎ方に違いがあり、それが現在の教団や宗派の違いにつながっています。二つ目のテーマでは、『選択本願念仏集』を与えられた門弟のうち、現在まで教えが継承されている浄土宗鎮西流の弁長、西山浄土宗の證空、そして浄土真宗の親鸞の教義展開を学び、三者の比較を通して親鸞の立場や教えをより明確にすることをめざしています。

門弟の教義に違いが生まれる理由

研究では、法然と門弟たち、門弟同士の教義の相違点や類似点を解明すること、さらに、教義の比較を通して「そもそも浄土教とは何か」について考えることを課題としています。法然は「ただ南無阿弥陀仏と念仏を称えれば往生する」という専修念仏を説きました。その点は、親鸞、弁長、證空の教義も同じなのですが、念仏以外の諸行をどう考えるか、信心や菩提心の解釈や位置付けなどにはそれぞれ違いがあります。例えば、わかりやすいのは浄土宗と浄土真宗の救いの構造の違いです。浄土宗では、「私が」念仏を称えることで阿弥陀仏が救ってくださる、と考えます。つまり救いの始まりは「私」の発信です。一方、浄土真宗では「阿弥陀仏が」私を救おうとして念仏を与え、そのよび声に応えて私が念仏を称えると考えます。こちらの始まりは「阿弥陀仏」の発信です。「南無阿弥陀仏と称える」という行為は全く同じですが、浄土宗の救いは「私の願い」であり、浄土真宗の救いは「阿弥陀仏の願い」であるという構造的な違いがあるわけです。

門弟たちは、法然が説いたことをそれぞれの境遇、環境、経験に照らして聞き、その教えを自らの生き方に重ね、人生を通して体現していきました。おそらく法然自身、全員に同じように教えを授けるのではなく、門弟それぞれに合わせた説き方をしているはずです。そう考えると、同じ法然の教えを受け継いでいても、門弟によって教義に違いが生まれるのは当たり前のことかもしれません。

今後の展望

仏教が学びや生き方のヒントになる発信を

仏教や浄土真宗の研究は、経典と向き合い、読み込んでいくことを基本としています。経典を「文献」としてとらえ、客観的に読み解いていくという研究方法もありますが、私自身は研究と信仰を切り離すような研究姿勢は取っていません。そうではなく、親鸞やほかの門弟が法然の教えを自分の生き方に重ねて教義を構築したように、私の生き方が問われるような研究の仕方こそ、真宗学を正しく学ぶことにつながると考えています。また、法然から門弟たちへの教えの継承は、私の真宗学の学びと重なるところがあります。私も真宗学において先生方から教えをいただき、その教えを自分で再構築して表現していくという営みを続けてきました。さらに現在は大学の教員となり、これまで学び研究してきたことをどう伝え、表現していくかも問われていると感じています。

これまで、研究成果を活かして、一般の方向けの書籍を何冊か刊行してきました。その際に意識してきたのは「仏教との出あいになるような本を作る」ということです。教えを正しく深く伝えることはもちろん、誰もがわかりやすく、手に取りやすい本にするよう常に心掛けています。また、研究者としてこれまで論文で発表してきたことを研究書として刊行することもめざしています。私の学びの成果が、みなさんがどう学び、どう生きていけばいいのかを考えるよりどころとなるよう、多くの方に伝わる発信を続けていきたいです。

教育

通信教育部で多様な学生に指導

武蔵野大学通信教育部は、通信制大学では唯一、仏教学、特に浄土真宗を体系的に学べる大学です。私は現在、通信教育部人間科学部仏教学専攻と大学院仏教学研究科の授業を中心に担当し、通学制でも建学の精神に基づく必修科目「生き方を考える」の講義を行っています。また、広く市民を対象とした生涯学習講座も担当しています。

通信教育部では、社会で働いている方、定年退職後の方など、さまざまな立場の方が学生として学んでいます。自ら学費を納め、時間を作って学ぼうと決意された方々ですから、みなさん学びへの意欲が高く、仏教の教えを人生の指針にしたいという思いも持っています。そうした学生への授業で特に意識しているのは、仏教や浄土真宗の教えに出あう意義、いのちの尊さについて伝えることです。たとえば、阿弥陀仏の「必ず救って見捨てることがない」という摂取不捨のこころが私たちに向けられていると知ることは、新しい人生観や世界観を持ち、物事がそれまでと違って見えるきかっけになると思います。また、摂取不捨のこころが「誰一人取り残さない」というSDGsの理念とも重なるように、仏教の教えをヒントにいまを理解することもできるでしょう。学生が想定していた以上の学びが得られるよう、レポートの添削にも時間をかけています。時には私の添削がレポートの字数を超えてしまうこともあるほどです。

▲前田先生の著書

一方、建学の精神を学ぶ通学生への授業は全学部の学生が受講します。はじめは「なぜ仏教を学ばなければならないの?」という反応もあるのですが、学びを進めるにつれ、多くの学生が仏教の教えを「自分の人生や学生生活で活かせるもの」と感じるようになり、反応が変わってきます。授業を通して仏教の基礎的知識を身に付けるだけでなく、相手を思いやるこころ、感謝のこころ、常にわが身を省みる内省のこころを養い、人生を生きる手がかりになるものをつかんでほしいと思っています。

人となり

「大学の顔」聖語板を書く

小学校に入学して間もないころから書道を続けています。それもあって、三年ほど前から武蔵野キャンパスと有明キャンパスの正門などに設置されている聖語板の作成を担当しています。

2つのキャンパスに計4カ所にある聖語板では、仏教に基づく本学の建学の精神を広く涵養するため、先人の言葉を月替わりで掲示しています。教職員や学生だけでなく、地域の方、大学を訪れた方も目にする場所にある聖語板は、いわば「大学の顔」です。内容はもちろん、一目見て目に飛び込んで来るようなインパクトも大切ですから、どこで行を変え、どの文節を強調するかといったことにも気を配って書いています。

最近では、SNSに聖語板の言葉や写真をアップしてくれる方がいたり、私の息子が通っている保育園の先生からリアクションをいただいたりすることもあり、聖語板をきっかけにしたご縁の広がりを感じています。聖語板の言葉は、受け止め方に正解があるわけではなく、それぞれが自分なりの受け止め方をすることができる言葉です。私が書いた言葉がふとした瞬間に心に響き、生活の中で安らぎや潤いとなってほしいと願っています。

10年ぶりの育児で思うこと

現在2歳になる二男が生まれたことをきっかけに、あらためて子育てと向き合っています。中学生の長男が幼いころは、子どもが起きる前に出勤し、寝た後に帰宅するような生活でしたから、子育ては妻に頼りきりになっていました。コロナ禍で子どもと過ごす時間が増えたこともあり、今は二男の保育園の送り迎え、連絡帳の記入や荷物の準備、帰宅後の遊び相手、洗濯、入浴、おむつ交換など何でもやるようになりました。立派なことは何もできていませんが、10年ぶりの育児であらためて父親とはどうあるべきかを見つめ直させてもらっているところです。

子育てで大事にしているのは、家族でいろいろな体験をすることです。コロナ禍前には家族で大相撲や2019年のラグビーワールドカップに出かけ、現場でしか味わえない迫力や熱狂を肌で感じたことがとても良い思い出になっています。子どもたちが自分の目で見て体験し、体験を家族で共有する時間は、これからも大切にしていきたいと思っています。

また、子育てと真宗学の学びは、無関係ではありません。親鸞は妻帯して家庭を持った僧として知られ、それがほかの仏教宗派との大きな違いでもあります。親鸞は、家族とともに念仏の道を歩むことは、法然の教えと何ら矛盾しないと考えていました。家族と暮らして同じ道を歩み、思いを分かち合うことが、真宗学の学びを体現することにもつながるのではないかと思っています。

―読者へのメッセージ―

私が今人生を歩んでいるのは、私一人の力ではありません。人は、いろいろな方の支えがあり、導きがあって、はじめて歩むことができます。仏教の学びを通して、人とは生かされているいのちを生きているということを伝えていきたいと思っています。また、人間は過去に生きるわけはなく、未来を生きる保証もありません。生きているのは、「ただ今」。その今を大切にしながら自己を見つめると、周りを思いやる気持ちが生まれます。それは社会生活、人間関係において欠かせないものです。浄土真宗の教えから生き方を考え、得た学びを人生に活かしていっていただきたいですね。

取材日:2022年9月