学問の地平から
教員が語る、研究の最前線
第10回 社会福祉学
本学の教員は、教育者であると同時に、第一線で活躍する研究者でもあります。本企画では、多彩な教員陣へのインタビューをもとに、最新の研究と各分野の魅力を紹介していきます。
第10回 社会福祉学人間科学部社会福祉学科 渡辺 裕一 教授
ソーシャルワークの力で「120歳まで幸せに生きられる世界」をつくる
人となり
握れなかった大ばあちゃんの手
研究者としての私の原点には、おそらく、曾祖母の臨終に立ち会った経験があると思います。

曾祖母(私は「大ばあちゃん」と呼んでいました)は、私が中学2年の時、96歳で亡くなりました。
その時の私は、「死」がものすごく怖かった。大好きだった大ばあちゃんの、すっかり細くなってしまった手を見て、最期にその手を握ることができませんでした。得体の知れない「死」が怖くて怖くて仕方ありませんでした。

大ばあちゃんは高齢になって役割を失い、もう自分の居場所がない、と感じていたのかもしれません。今になってみると、最期に大ばあちゃんの手を握れなかったのは、最後の最後で、大ばあちゃんに居場所がないと思わせてしまったかもしれない。そんな罪の意識は、今も持ち続けています。それが、すべての人が「居場所がない」なんて言わなくてもいい、誰もが「ここにいていいんだ」と思える世界をつくろうと思った原点にあるような気がします。

高3まではプロサッカー選手しか頭になかった
とはいえ、大学で高齢者問題を学ぼうと思うようになったのは、受験ギリギリの時期。それまでは、本気でプロサッカー選手になるつもりでした。

サッカーは小学4年で始めました。中学2年生の時にJリーグが誕生して、地元のJリーグクラブのユースチームのセレクションも受けました。結果ですか? ダメでした(笑)。

高校生になっても、プロを目指す気持ちは変わりませんでした。朝早く登校して自主練をして、ずっとボールをいじって、放課後は部活で練習して、部活後も自主練をして。そんな3年間を過ごしたのに、3年の時にケガをしてレギュラーを外され、それがきっかけでプロを諦めました。自分ではそれを挫折だったと思っているんですが、周りに言わせると、「やっと気付いたか」ということだったようです(笑)。

今はもうプレーすることはなくなりましたが、サッカー観戦は今も趣味の一つです。ほかにも、温泉、旅行やバーベキューなど、趣味はいろいろあります。特にバーベキューは、アメリカに留学している間、友人や同僚の家に招待されて楽しむこともありました。日本とスタイルは異なりますが、ワイワイ集まって食べるのは同じ。あの雰囲気が好きなんですよね。
006

▲アメリカ留学中の旅行

今後の展望
「最先端」の地から社会に働きかける
研究の成果を地域社会、そしてソーシャルワーク教育の現場で実践し、人の生活をより良くすることにどう貢献できるかを常に考えています。

「限界集落」をフィールドに研究を始めた13年前、私は集落を持続可能にするためには、住民の「助け合いのパワー」が鍵になると考えていました。ところが、研究のために集落に通い続けるうちに、その考えが間違っていたことに気付かされました。集落の高齢化は進む一方で、今や60代はまだ若手、80代から90代が住民の中心になっていきます。高齢化が極端に進めば、住民同士の助け合いに依存することは、もはや不可能です。

これから日本のあらゆる場所で、こうした極端な高齢化と周縁化が起こる可能性があります。今私が研究のフィールドとしている集落は、その意味で、日本の「最先端」です。国は、まだ地域の助け合いを重視する政策を打ち出していますが、「最先端」の集落を見れば、それがいずれ立ち行かなくなることは明らかです。集落の内部での「助け合い」だけではなく、集落を取り巻く外的環境に働きかけ、集落と社会との関係を変えることで生活に必要な資源を取り戻さなければ、そこで暮らす人の生活を保障することはできません。そのことを、私の研究を通じて訴えていきたいと考えています。
007

―読者へのメッセージ―
私はみなさんと一緒に、誰もが幸せに生きられる社会をつくっていきたいと思っています。「幸せ」の概念は、本当はとてもあいまいですが、私は、幸せは自分に居場所があること、自分がここにいていいんだと思えることだと考えています。「幸せに生きる」ことは、必ず他者との関係の中で考えなければなりません。他者を受け入れ、偏見による差別をなくし、誰もがお互いを尊重しあえる社会をどう実現するのかを、私たちは考えて行く必要があるのではないでしょうか。

誰もが、どのような状態にあっても、幸せに生きられる社会を、一緒につくっていきましょう。
008

取材日:2021年2月