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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第17回 看護学看護学部 看護学科 坂上 明子 教授

親も子も幸せになる不妊治療を目指して

看護学 教授

坂上 明子Sakajo Akiko

千葉大学看護学部卒業。千葉大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。専門は母性看護学、助産学。大学卒業後、5年間助産師として周産期医療の現場を経験。その後大学院に進み、愛知医科大学看護学部講師、千葉大学大学院看護学研究科准教授等を経て、2018年より現職。日本生殖看護学会副理事長、日本母性看護学会理事。

晩婚化やライフスタイルの変化を背景に、不妊治療を受けるカップルが増えています。不妊の検査や治療を受けた経験があるカップルは、約5.5組に1組。治療費の助成や公的医療保険の適用など、治療を受けやすい環境の整備が進んでいるものの、カップルへの情報提供や意思決定の支援にはまだ課題が残されています。母性看護学や助産学を専門領域とし、看護の視点で不妊治療を行うカップルの支援に取り組む坂上明子教授の研究をご紹介します。

研究の背景

不妊治療中のカップルが抱える負担

▲坂上教授の著書

2019年に体外受精などの高度生殖医療によって生まれた子どもは、過去最高の6万598人。日本で生まれた子どもの約14人に1人は高度生殖医療で生まれた計算になります(注1)。不妊治療は、一昔前に比べれば特別なことではなくなりましたが、やはりさまざまな負担を強いられるものであることに変わりはありません。 不妊治療を受けるカップルにとって大きな負担になっているのが、時間や費用、そして身体的・心理社会的な負担です。多くの場合、不妊治療は数年の時間を要します。その間、なかなか妊娠に繋がらなければ、それだけで大きなストレスを抱えることになります。自然妊娠したきょうだいや友人と距離を置くようになり、孤立してしまうカップルも珍しくありません。ようやく妊娠しても流産や死産への不安が強く、おなかの中の赤ちゃんに話しかけたり、出産後の育児の準備をすることが「怖くてできない」という方もいらっしゃいます。こうした方々には自然妊娠した方とは異なる特別なサポートが必要だという思いから、不妊治療を受けるカップルや不妊治療を経て妊娠・出産・子育てをしている両親への看護に関連した研究に取り組んでいます。

研究について

不妊カップルの「より良い選択」を支援

-治療中の意思決定を助けるガイドを作成-

現在力を注いでいるのは、40歳以上で不妊治療を行っているカップルに対し、治療を選択する上でどのような意思決定支援が必要かに関する研究です。 不妊治療は意思決定の連続です。そもそも不妊治療は「しなければならない」ものではありませんので、治療を始めるかどうかにも意思決定が必要です。治療中も、内服薬でできる範囲だけにするのか、体外受精や顕微授精などの高度生殖医療を受けるのか、卵子提供・精子提供など第三者が介在する治療を受けるのか、さまざまな判断が求められます。妊娠に繋がらなかった場合、いつ治療をやめるかはとても難しい決断ですし、養子縁組や里親制度を選ぶことも考えられるでしょう。

こうしたさまざまな意思決定の場面において、とくに高年齢で治療を受けるカップルにとっては、適切な時期に正しい情報提供を受けることが、そのカップルにとってのよりよい選択をすることに繋がります。たとえば、養子縁組には年齢制限が設けられている場合が多く、それを知らなければ、養子を迎えたいと思った時には時期を逸してしまっていて手続きできないということになりかねません。そこで今、治療中の各段階で利用でき、情報収集や専門医、看護職者との話し合いに活用できる意思決定支援ガイドの作成を目指して研究を進めているところです。

-「子どもがほしい」の“先”を見据えて-

▲胎児シミュレーターを使って、分娩の機序を説明している

この研究の背景には、目の前にある「子どもがほしい」というカップルの思いだけではなく、子どもの将来や自らの老後までも考慮した上で、治療に伴うさまざまな選択をすることが必要ではないかという問題意識があります。 日本で不妊治療を受ける方の年齢は、年々高くなっています。一方で、年齢が上がるほど妊娠・出産率は低下します。2019年の日本産婦人科学会のデータ(注2)では、女性が40歳の場合、高度生殖医療を受けた後の出産(生産)率は9.8%、45歳では1.2%まで下がります。高年齢での妊娠・出産はハイリスクで、子育ての負担も大きく、一般的には、子どもが成人するまで親が健康でいられる可能性は若いカップルに比べて低くなります。不妊治療は日々進歩し、以前に比べると高年齢でも治療を受けることは可能になりました。しかし、子どもの将来や健やかに成長できる環境、そして、治療をしても必ずしも妊娠につながらない可能性を考えた時、いつまで不妊治療を続けることがいいのかはとても難しい問題です。

また、現代の社会には、不妊の治療法に関する情報があふれています。以前、ある患者さんが不妊治療について「医療者が敷いたレールをひたすら走っているよう」と話してくださいましたが、次々と目に飛び込んでくる治療情報を見て「これを逃したらもう妊娠できないかもしれない」と駆り立てられるような気持ちで立ち止まることもやめることもできなくなっている方は少なくありません。その点でも、カップルで話し合い、情報を取捨選択する支援は重要です。

不妊治療をするカップルの思いやニーズ、価値観に寄り添うことは大切ですが、何よりも優先されるのは生まれてくる子どもの幸せや健康、権利を守ることだと考えています。それぞれのカップルが不妊治療に何を求め、先々の人生で何を重視するのか。不妊治療を終えた後の生活や子どもの将来も踏まえた意思決定ができるよう、支援体制を整えていきたいと考えています。

公的保険適用には懸念される点も

▲新生児の観察方法を学ぶためのシミュレーター

2020年、少子化対策の一環として不妊治療の公的保険適用が拡大されることが決まり、22年4月からの適用に向けて議論が進められています。21年には、暫定措置として特定不妊治療費助成制度が強化されました。保険適用によって費用負担が軽減されることのメリットは大きいのですが、一方でいくつか懸念される点もあります。 現行の助成制度では、1回の体外受精・顕微授精につき30万円が補助されます。仮に40万円かかる治療を受けた場合、現在の自己負担は10万円です。ところが、保険適用後はこの助成が廃止されて3割負担となるため、自己負担が12万円に増えてしまいます。治療にかかる金額によっては、負担増になる可能性がある点には注意が必要です。一方、保険適用によって価格が適正化され、自己負担は軽微になる可能性もあると思います。

また、不妊治療はカップルがもつ多様な不妊原因が組み合わさっているため、それに合わせたより個別性の高い治療が必要となります。これまで保険適用外の自費診療だったからこそ、専門医が自由に工夫して新しい治療を開発し、妊娠率を上げてきました。保険適用に伴って治療が標準化されると、そうした自由度が失われ妊娠率が低下するのではないかという指摘もあります。自由診療と保険診療の線引き、保険財政全体に与える影響などの課題もあり、私も議論を注視しているところです。

今後の展望

若い世代へのプレコンセプションケアが重要

高校までに学校で行う性教育では、避妊の方法は学べますが、不妊のことを学ぶ機会はほぼありません。避妊についてしか学んでいなければ、希望すればいつでもすぐに妊娠できると思い込んでしまうのは当然かもしれません。また、不妊を「女性だけの問題」と思っている男性は多く、男女ともに将来の妊娠について正しい知識を得る機会は決して多くないのが現状です。これからは、思春期から青年期の男女に将来の妊娠を想定して自分の健康やライフスタイル、ライフプランを考えてもらう「プレコンセプションケア」を充実させることが重要だと考え、本学をはじめいくつかの大学で授業を行っています。

プレコンセプションケアは、子どもを持つことを推奨するものではありません。人の生き方は多様で、子どもを持つ人生も、持たない人生も等しく価値があり、どちらも尊重されるべきです。ただ、正しい知識を持った上で「子どもを産まない」という選択をすることと、子どもを望んでいたにもかかわらず、正しい知識を持たなかったために、結果的に「子どもを産むことができなくなる」ことは、まったく異なります。高年齢で不妊治療を受けて出産する方への支援はもちろん大切なのですが、一方で、そうなる前にできることもあります。プレコンセプションケアを通じて若いうちから今後のライフプランを考え、若い世代が人生の選択肢を狭めてしまうことがないよう支援していきたいと考えています。

教育

看護の楽しさ、厳しさを知る臨床家を育てる

▲実習室

学部では母性看護論やセクシュアリティ論などの講義や実習科目を教えていますが、授業では学生に看護を行う楽しさとともに、人の命を預かる厳しさ、責任の重さを伝えたいと思っています。看護の現場では、教科書に載っているような一般的な知識や技術では対処しきれないことがたくさん起こります。さらに、日々進歩する医療に対応するために一生涯学び続けることも求められます。女性や家族の背景、思い、考え、希望、価値観、生活に合わせた看護を行うため、大学時代に自ら考える力やより良い方法を模索する力を伸ばしてほしいと考え、日々授業を行っています。

アメリカの哲学者ミルトン・メイヤロフは著書『ケアの本質‐生きることの意味‐』において、「一人の人格をケアすることとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」と述べています。とても深い言葉だと思います。ケアの対象者に深い関心をもち、成長や自己実現を助けるケアを提供することを通じて自らも多くの学びや喜びを得る、それが看護の楽しさでもあり、やりがいでもあると思います。しかし今、コロナ禍のため病院などでの臨地実習が少ない状況にあります。本来は患者さんとのやりとりや現場の看護職者から学べるはずの看護の楽しさや厳しさをどう伝えていけばいいのか、教員として難しさともどかしさを感じています。一方で、コロナ禍で本当に大変な思いをされている医療者の姿を見て「早く現場に出て社会の役に立ちたい」と話す学生たちもいて、とても心強く思っています。

人となり

家族の幸せを支援したいと助産師に

私は幼いころは病弱で、何度も入退院を繰り返していたので、医療者は常に身近な存在でした。成長するにつれ、私も誰かの健康の役に立ちたいと考えるようになり、看護の道を志して大学に進学しました。

私が高校生のころは、まだ看護系大学が日本に数カ所しかなく、大学の看護学部は看護学の教育者を養成する場所という側面が強かった時代です。私も大学進学当初は、数年間看護師として活動した後、教員になって看護師を養成することで社会に貢献したいと考えて、学びを進めていました。しかし、大学3年生の時に、人の命の誕生に関わる母性看護学領域の素晴らしさに触れ、助産師になることを決意。その思いを叶え、卒業後は助産師として大学病院の周産期センターで働くことになりました。

家族の幸せを支援しようと意気込んで働き始めたのですが、勤務先の周産期センターでは、生と死は隣り合わせであることを痛感することになりました。ハイリスクの妊産婦さんが多く入院されている周産期センターでは、流産・死産に終わってしまうことも、合併症で母体が重篤な状態になることも、早産や先天性の疾患で新生児が亡くなってしまうこともあります。すべての妊娠・出産が正常に経過するわけではなく、無事に妊娠や出産できることは奇跡だと強く感じました。いずれは看護学の教員になるつもりで、臨床現場で働き始めたのですが、このままずっと臨床家で居続けたいと思うほど充実した毎日でした。

人生を変えたある患者さんとの出会い

勤務していた大学病院には、不妊治療のために通院されている方もいらっしゃいました。ただ、私が勤務している病院では当時、高度生殖医療を行っていなかったため、私たち助産師が不妊治療に直接関わることはほとんどなく、日ごろの仕事の中で不妊の患者さんを意識する機会はそれほどありませんでした。

ある日私は、日曜日であるにもかかわらず、不妊治療の注射のために来院された患者さんに「大変ですね」と声を掛けました。当時は週末や夜間でも治療周期に合わせて注射を打つために通院する必要があり、患者さんは生活のほとんどが治療を中心に回っているような状態でした。それを労おうと何気なく発した言葉だったのですが、その方は、堰を切ったように自分がどれほどつらく大変な思いをしているかということを話し始められました。そのお話を聞くうちに、不妊治療を受けている患者さんはこれほど大変な思いをされていたのか、と大きなショックを受けたことをよく覚えています。この経験を通して、不妊の患者さんの看護に強く興味を引かれたことが、研究者としての私の出発点です。

―読者へのメッセージ―

医療者の中でも、看護職は「人」に深く関わる仕事であり、人に寄り添いケアする高度な専門性を持った職業です。さまざまな年齢、性別、社会背景をもつ人々の健康を支援するため、からだだけでなく、こころ、暮らし、家族や社会とのかかわりなど、私たち看護職者が学ばなければないことは多岐に及びます。これからも、健康に関する専門的な知識と技術を持っているだけでなく、豊かな人間性を兼ね備えた高度な実践者・研究者を一人でも多く、養成していきたいと思っています。

取材日:2021年11月