
第49回 社会福祉学 人間科学部 社会福祉学科 柳 姃希(ユ ジョンヒ) 助教
韓国セクシュアル・マイノリティの
「あいまいな当事者性」

人間科学部社会福祉学科 助教
柳 姃希Yoo Junghee
立教大学コミュニティ福祉学部卒業。立教大学大学院コミュニティ福祉学研究科コミュニティ福祉学専攻博士課程後期課程修了。博士(コミュニティ福祉学)。2021年4月より現職。著書に『あいまい化する〈当事者〉たち―韓国セクシュアル・マイノリティ運動から考えるコミュニティの未来』(春風社、2023年)。
社会的マイノリティに対する人権問題は、世界各国が抱える社会課題です。さまざまなマイノリティが当事者として運動を担い、社会に向かって声を上げていますが、それは簡単なことではありません。差別が激しい韓国におけるセクシュアル・マイノリティ運動に焦点を当て、多様な属性を持つ当事者たちが抱える生活課題の社会的支援に向けた研究を進める柳助教の研究を紹介します。
研究の背景
韓国と日本の環境の違いが研究の出発点

近年、先進諸国を中心にセクシュアル・マイノリティ問題への関心が高まり、一般市民にもセクシュアル・マイノリティの人権向上に対する認識が少しずつ広がっています。しかし韓国では、キリスト教プロテスタントの人々を中心にセクシュアル・マイノリティへの差別や偏見が根強く、運動が本格化した1990年代から長い間、環境が大きく変わることはありませんでした。私自身、セクシュアル・マイノリティの当事者でありながら、運動が行われていたことを知ったのは留学のために来日した後のことでした。「日本ではセクシュアル・マイノリティがカミングアウトしてメディアで発言する姿が当たり前に見られるのに、なぜ韓国ではそうした変化が起きなかったのか」。来日後に抱いたそんな疑問を出発点に、韓国におけるセクシュアル・マイノリティ運動の過程とその運動が抱える課題を明確にしたいと考え、研究テーマとして取り組んでいます。
研究について
差別が激しい環境が生んだ戦略としてのあいまいさ
これまでの研究では、韓国でセクシュアル・マイノリティが権利獲得のためにどのように運動を展開してきたか、その特質を検討してきました。韓国で長年セクシュアル・マイノリティを取り巻く環境が変わらなかった背景について、私は当初、運動を担う人に当事者性がなかったからではないかと考えていました。しかし、研究を進める中で見えてきたのは、当事者性が「ない」のではなく、差別が激しい社会の中で、戦略的に当事者性を「あいまいにしていた」という韓国特有の運動の在り方でした。
韓国でセクシュアル・マイノリティ運動が本格化した1990年代には、多くの方がカミングアウトし、当事者として活動を行っていました。しかし、当事者が可視化されたことで差別も可視化されてしまい、次第に自分の本当の姿を見せることを諦めてしまう当事者が増えていきました。その結果、運動を続けるために当事者たちは自分がセクシュアル・マイノリティであるかどうかを明言せず、“活動家”や“支援者”として運動を担うという形を取るようになったのです。このような「あいまいな当事者性」戦略は、当事者性をオープンにできない環境に置かれた社会的マイノリティにとって非常に有効な戦略であり、セクシュアル・マイノリティ以外の領域でも活用できるものであると考えられます。
個々人が抱える生活課題をいかにとらえるか
ただ、こうした「あいまいな当事者性」戦略には、個々人が抱えている生活課題を見えにくくするという限界があります。当事者性をあいまいにしているために、運動や支援が「差別禁止法の制定」といったマクロレベルのものになりやすく、ミクロレベルの課題や支援へのアプローチが難しくなるからです。
「セクシュアル・マイノリティ」と言っても、置かれている環境、抱えている課題は人それぞれ違います。同じレズビアンであっても、正規雇用で高い給与を得ている人と低賃金で働いている人では生活課題が異なりますし、日本人と私のような外国人でも違っているでしょう。中には「自分には生活課題はない」という人もいるかもしれません。また、一人の人の中にも、性アイデンティティだけでなく、性別、人種、民族、障害の有無など、さまざまなアイデンティティが存在し、それらのアイデンティティが交差するところで生まれる差別や課題にも目を向ける必要があると考えています。

しかし、これまでの調査や研究はセクシュアル・マイノリティをひとくくりにしているものが多く、個々人の差異に焦点を当てた研究はまだ少ないのが現状です。そこで現在、多様な視点からセクシュアル・マイノリティ問題にアプローチすることを目指し、個々人が抱える生活課題と社会的地位に起因する生活課題に焦点を当てた研究に取り組んでいるところです。
セクシュアル・マイノリティに関する研究は、主に社会学の領域で行われることが多く、研究を始めた当時は「なぜ社会福祉学でこの研究をするのか?」と聞かれたこともあります。私が社会福祉学の研究者としてセクシュアル・マイノリティ問題を取り上げているのは、当事者の方々が抱えている生活課題の多くが、高齢者、障害者、女性といった社会福祉が対象としている方々の生活課題と共通しているからです。にもかかわらず、セクシュアル・マイノリティの課題は「自らの力で解決すべき個人の問題」とされ、社会問題として認識されていません。研究を通して個々人が抱える生活課題を明らかにし、どのような支援のニーズがあるのか、どうすればセクシュアル・マイノリティが抱える課題を社会問題として位置づけて支援することができるのかを考えていきたいと思っています。
今後の展望
社会的マイノリティがエンパワメントできる環境を
韓国でセクシュアル・マイノリティ運動が始まって30年以上が経ちますが、いまだにセクシュアル・マイノリティはさまざまな差別を受け、それに耐えきれず自ら命を絶つ人もいます。そうした現状を見ると、差別を受けた人を保護する仕組みを欠いた、セーフティネットの脆弱性という韓国社会が抱える問題を感じます。そして、社会のマジョリティに抑圧されて自分らしく生きることが難しい人々にとって、自分の力を取り戻すこと(エンパワメント)がいかに重要かが分かります。

私が「あいまいな当事者性」戦略の研究で目指したのは、「当事者はカミングアウトするべきだ」「あいまいにするのは良くない」ということではなく、社会的圧力によってセクシュアリティをあいまいにせざるを得ない社会環境を世に問うことでした。歴史上、多くのマイノリティ運動は、自分たちが抱える課題を当事者が発信し、権利を主張することで発展してきました。「当事者の声」が社会を変えてきたのです。ただ、韓国はまだそれができない環境にあります。そうした現状を変えていくためには、セクシュアル・マイノリティ自身が自らの課題を「自分だけの課題ではなく社会の問題だ」と認識し、エンパワメントできる環境の整備が必要だと考えています。今後の研究が、社会的マイノリティが当事者性やエンパワメントの重要性を再認識する契機になり、“社会的マイノリティ”ではなく、“社会の構成員”としての新たなアイデンティティの獲得につながることを願っています。
教育
経験を通して差別を自分事としてとらえてほしい
ゼミでは、セクシュアル・マイノリティを切り口に、社会的マイノリティが抱える問題や支援をテーマに学生と学びを深めています。
学生と接していると、今現在起きている社会的マイノリティへの差別に対して、きちんと理解して考えている学生がいる一方、差別に気付いていない学生が案外多いとも感じます。日本では、2023年に性的マイノリティに対する理解を広めるための「LGBT理解増進法」が施行され、自治体でパートナーシップ制度が始まるなど、セクシュアル・マイノリティに対する認知が広がっていると思っていたのですが、実情はそうとも言えないようです。

私は来日した当初、カミングアウトしたトランスジェンダーがテレビで堂々と自分の意見を発信しているのを見て、韓国との違いにショックを受け、「日本はセクシュアル・マイノリティへの差別がない、生きやすい社会なんだな」と感じていました。ただ、今はそうは思っていません。日本には差別がないのではなく、「無関心」という見えない差別があり、韓国とは種類が違うだけで差別が存在することに変わりはありません。学生の皆さんには、社会福祉を学ぶ者として、無関心という差別、無意識で行っている差別に気付き、自分事として考えてほしいと思っています。映画鑑賞やセクシュアル・マイノリティの文化祭への参加など、体験を通じた学びにも取り組み、学生とコミュニケーションを取りながら多様性を認めることの大切さを伝えていきたいです。
人となり
思春期にハマった「ムンク」と「日本」

休日や空き時間は、美術館に行くことが多いですね。特に、エドヴァルド・ムンクの作品が好きです。ムンクに興味を持ったのは、中学か高校の時に自伝を読んだのがきっかけです。韓国でオスロ国立美術館の作品展が開かれた時に「叫び」を観て、さらに好きになりました。「叫び」は人間の深い不安や絶望、内面的な苦悩を視覚的に表現している点がとても魅力的です。ムンクの作品を通じて、感情や人生について考える時間を持つことも有意義だと思っています。
思春期にハマったものがほかにもあって、それが日本の文化です。特に音楽が好きで、globeのKEIKOさんが大好き。GLAYやL'Arc~en~Cielも聞いていました。私が高校生のころ、韓国では日本の漫画やアニメを見ることが禁止されていたのですが、自由に見られないから見たくなるし、禁止されるほどハマってしまいました。私、禁止されるとやりたくなるタイプなんです(笑)。
ゴルフは思い通りにいかないから面白い

最近はゴルフにハマっています。日本のゴルフコースは四季折々の美しい景色を楽しめる場所が多く、プレーしながらリフレッシュできるのが素敵ですよね。それに、自分が思うようにいかないところもゴルフの魅力です。「今日は完璧!」と思うほど調子が良くても急に崩れるし、前にプレーしたことがあるコースでも毎回結果が違う。ゴルフは自分自身との戦いであり、精神的チャレンジ。そこが面白いな、楽しいなと思います。今、韓国はゴルフコースの料金が高くてなかなか楽しめないんですが、日本は韓国の3分の1くらいで済むので、韓国から友達がゴルフをしに来ることもあるんです。LCCに乗ればゴルフをしておいしいものを食べて帰っても、韓国で1回ラウンドするより安いこともあるんですよ。
読者へのメッセージ

マイノリティに対する差別は、何か制度ができればなくなるというものではありません。また、具体的な差別の実態を知ることは重要ですが、それだけで差別をなくすこともできません。学生に「差別されたことはありますか」と聞くと、ほとんどが「ない」と答えます。しかし、丁寧に掘り下げて話を聞いてみると、本当はたくさんの学生が何らかの差別を経験しています。たとえ今まで差別されたことがなくても、誰もがいつか差別を受ける可能性はあります。差別や排除がなぜ起こるのか、その背景にある社会構造や偏見に目を向けることで、差別のない社会に近付きます。みなさんにもぜひそうした視点を持っていただけたらと思います。
取材日:2024年7月