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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第83回 公衆衛生看護学 看護学部 看護学科 中板 育美 教授

児童虐待は「社会問題」。 そして何より起きる前の予防が重要

看護学部 看護学科 教授

中板 育美Nakaita Ikumi

1989年より東京都の保健師として勤務。その際に担当した児童虐待事例や、保健と福祉の連携や協働について大学院(修士・博士課程)で研究。厚生労働省国立保健医療科学院上席主任研究官、日本看護協会常任理事・全国保健師職能委員長などを経て現職。また、自治体や国の各種委員やアドバイザー、日本公衆衛生看護学会理事、日本子どもの虐待防止学会副理事長、さらに自ら創設した親子&ヘルスサポート推進協会理事長を務める。令和3年度「健やか親子21全国大会 母子保健推進会議会長賞」、令和4年度「母子保健家族計画事業功労者厚生労働大臣表彰」など、母子保健分野における功績により数々の賞を受賞。

子どものいのちと心身の健やかな成長を脅かす児童虐待。中板育美教授は保健師として数多くの虐待の現場に向き合い続けてきました。その経験から虐待の多くは特別な家庭・親だけの問題ではなく、私たち社会全体で取り組むべき課題であると確信。現場経験をベースに児童虐待予防を研究として体系化し、さらに公衆衛生の視点から虐待を未然に防ぐための政策や教育についても政府・自治体などに提言しています。

研究の背景

子どもの頃の憧れを追って保健師に

私が看護の世界を志したきっかけは、子どもの頃にへき地医療を舞台にしたドキュメンタリーを見たことでした。画面に映る看護師は自転車で各家庭を回って住民の血圧を測ったり、寝返りのお手伝いをしたりしていました。それがとても自然で、しかもその家族と他愛無い会話をしつつ健康を気遣い、今振り返れば保健指導をされていたと思います。健やかな暮らしを支える頼もしい存在で、胸が高まったのを覚えています。私は自分もこんな看護師になりたいと思うようになりました。

念願かなって病院の救急救命センターの看護師として働き始めた私は、重大な使命を感じる一方で、「何か違う…」と思っていました。看護師の仕事自体は素晴らしいものなのですが、私がドキュメンタリーで見た看護師のように、地域の中に当たり前のように身を置き、暮らしを継続的に守る姿ではありませんでした。当然です、救命救急ですから(笑)。自分は「保健師」として仕事がしたかったのだと気づきました。

社会問題としての「児童虐待」

そして1989年に保健師として東京都に入庁し、新しいキャリアをスタート。その1年目に今から考えてもかなり深刻な児童虐待のケースと遭遇することになりました。現在ほど「児童虐待」が社会問題として認識されていない時代でしたが、育児に困難を抱える家庭や孤立した母親、子どもに手をあげる親が、好き好んで叩いているわけではないことに気づきました。児童虐待の実情を日常的に目の当たりにしていくうちに、虐待は「特別な家庭の問題」ではなく、どの家庭にも起こり得る問題であり、可能な限り虐待が発生する前からの支援が必要であるという認識を深めていきました。しかし当初は職場でも私の考えはなかなか理解を得られませんでした。

1990年に入り、国は児童虐待が「社会問題」であると認識して「児童相談所における児童虐待相談対応件数」が毎年、公開されるようになりました。私は、まだ数少ない児童虐待の専門家(保健師)に教えを乞い、同時期に国内外の専門書を読み漁りました。そうしてようやく本格的に虐待家庭の問題と向き合えるようになりました。 虐待する親との出会いが、児童虐待予防という現在に至る私のライフワークに取り組むきっかけとなったのです。

研究について

公衆衛生としての児童虐待予防

研究者としての私は「児童虐待予防」「母子保健における地域支援技術」「仕組みづくり」を中心に、「次代を担う保健師の専門性と教育」「多職種連携による家族支援」などのテーマを扱っています。
前述の「児童相談所における児童虐待相談対応件数」は平成2年度の統計開始以来、児童虐待防止法による通告対象の拡大や社会全体の虐待に対する認識の高まりもあり、右肩上がりで増加し、令和6年度に初めてわずかに減少しました。それでも22万3000件以上に及びます。
児童虐待は、感染症対策や生活習慣病対策、精神保健対策などと同じく、公衆衛生(Public Health)の範疇だと考えています。例えば感染症も、公衆衛生的には、ワクチン接種やマスク、手洗いなどで感染症をあらかじめ防ぐことを重視します。生活習慣病になってからの対応より、社会全体や地域の人たちと組織的に健康を守り、病気を防ぐ努力をし、健康寿命を延ばそうとします。公衆衛生の、「生」は生命や生活であり、「衛」はそれを守ること、「公衆」は“一人”ではなく、“みんな”であり、みんなの生命や生活を、人間をとりまく自然、社会、環境要因と健康との関連を追及して健康の維持増進をめざす活動(C.E.A.Winslow:"Public health is the science art of preventing disease, prolonging life, and promoting health and efficiency through organized community efforts.")と教え込まれました。

児童虐待も起きる前の予防が何より重要です。虐待が起きてしまった時点で、子どもの心と体は大きく傷ついています。その傷は手術で取り除けるものではなく、子どもの心に傷跡として残ります。もっとも愛情を注いでくれるはずの親から痛みを与えられることで、幸せに生きるために欠かせない“人を信じる感情”を奪うことにもつながり、心の成長を阻みます。

児童虐待が社会の問題として扱われるようになった1990年代以降、児童虐待に関するメディアの取り上げ方は、まだ自分の子どもを虐待する親を「鬼母」と表現するなど「母親による虐待」が強調され、加害親と称して強く糾弾するものでした。しかし児童虐待の現場で親と接してきた支援者や私は、こうした言葉には違和感がありました。というのも保健師として虐待する親と面談すると、ほとんどのケースで親もまた傷つき、苦悩している人間であることがわかるからです。中には自身が親から十分な愛情を得られず、子どもの愛し方がわからずもがき、親と同じことをしていることに気付き、精神的に参ってしまう人も多かったのです。
児童虐待の対策・予防には、妊娠中の心身の健康管理、親の健康状態、子どもの発達確認、子どもの養育方法、さらには家族を取り巻く環境全体に対するケアが必要となってくるのです。

母子保健先進国としてできること

日本は、「母子保健」における世界最高水準とも言える行政サービスを提供しています。女性が妊娠したと分かった時点で自治体から母子健康手帳の交付をうけ、出産までの期間、きめ細かく妊婦健診や両親学級、保健師・助産師による訪問指導などが行われます。産後も母子保健法に基づき、子どもの発達上重要なメルクマールといえる時期に重層的に健診の場が用意されており、その受診率は全国平均95%以上を保っています。そしてどの時点でも、親と接した保健師は家族と真摯に向き合い、継続的な関係性を構築しながら、問題が発生する前に各家庭の状況やニーズに合わせてパーソナライズされた予防的なケアを実施します。

▲先生のご著書、共著書の一部

私も共同研究者として関わった令和2年度の乳幼児健康診査未受診者等に対する 取組事例に関する調査研究において、75%以上の自治体が未受診対応を行っていること、またそのうち9割が未受診理由と母子手帳交付時情報などをつなぎ、家族の背景事情に関心を寄せていることもわかっています。さらにこの時、居所 や生存確認だけではなく児の発育・発達や親子関係の確認まで行うことを推奨しています。アメリカの小児科医デビッド・オールズ氏らの研究が、虐待予防における家庭訪問の有効性(ex出産前から2歳まで定期的な家庭訪問群では虐待やネグレクトの発生率が0.29(vs非訪問群では0.54))を示したように、家庭訪問や地域の母子保健の仕組みを科学的に検証し、虐待予防の重要性を社会に示していくことが研究者として重要な役割だと考えています。

今後の展望

医療と福祉の多職種協働を目指して

「児童虐待死をゼロにしたい」。日々そんな想いで研究と教育、社会活動に取り組んでいます。
日本が子ども虐待予防大国を目指すためには、医療と福祉の多職種協働が必要不可欠だと私は考えています。そのことは保健師としての経験をベースに児童虐待の研究を深めるために大学院進学した際にあらためて気付かされました。具体的には地域で母子に接する保健師と、親と子どものケアを行う産科、小児科、精神科などの医師間の他科連携や福祉の専門職との連携です。私は、連携の先に協働があるという枠組みで整理しており、協働とは、多職種間の単なる情報交換ではなく、バックグラウンドは多様だが各自自律した行為者として集まり、切れ目という溝を互いののりしろで強化した支援を可能とするチームアプローチと考えています。それぞれの専門性を共有し、共に知恵を絞って今後の支援につなげていくプロセスが重要だと思います。

子ども家庭庁の発足などで、近年、児童虐待に対する政策は予防を重視する方向に進んではいます。しかし、残念ながらまだまだ医療と福祉の協働は決してうまく働いているとはいえません。私は東京都や厚生労働省の女性や子どもに関する委員会にもいくつか所属させていただいてきたので、研究と実際の政策が結びつくように考えながら、少しでも児童虐待死を減らせる社会づくりに力を尽くしていきたいと思っています。

また、児童虐待や母子健康保健の分野で予防の専門家である保健師の果たすべき役割は何か、その役割を担うための人材育成とはどのようなものかなどの考えを深め、微力ながら社会の幸せに還元できるようにがんばりたいと思っています。

教育

人の命に介在するプロフェッショナルとして

看護師、保健師を含む医療従事者は人の健康や命に介在するプロフェッショナルです。国家試験合格を目指す看護学部の教育は、ともすれば知識や技能の詰め込みになりがちですが、それでは不十分です。

学生の教育にあたって私が心がけているのは生命の尊厳を胸に刻み、高い倫理観を養い、患者さんや共に働く人々など人間への理解を深めること。これは実際に看護師や保健師になった後でも生涯にわたるテーマであり続けることを認識してほしいと願っています。

目の前の患者さんや住民さんから学ぶ姿勢

病院などでの看護実習を終えた学生が「私は患者さんの気持ちを理解でき、うまくコミュニケーションできた」「私の一言で、患者さんの行動が変わった」と笑顔で報告してくれることがあります。これは肯定的にみて貴重な経験ではありますが、その多くは看護師の卵である実習生を人生の先輩である患者さんがあたたかく見守り、気遣ってくれた結果でもあります。そんな患者さんたちの優しい気持ちに気付くことも、看護職になるための大きな学びとなります。さらに卒業後、看護師として働き始めてからも一人ひとり異なる人間である患者さんは多くのことを教えてくれるでしょう。「目の前の患者さんや住民さんから学ぶ」。このことを決して忘れてはいけません。間違っても、患者さんや住民さんの(無意識にも)上に立つのではなく、横に立つのです。医療職・看護職として(知識をフル活用し)、行く手にある困難を避けられるように誘導する、別の道を提案するなど、あくまでも伴走者として歩んでもらいたいです。

「自分自身の言葉で語る」ことができる人に

保健師として地域の母子と関わる際にも人間理解は非常に重要になります。看護師や保健師としての知識やスキルも人間理解と経験があってこそ生かせるものです。そして患者さん一人ひとりに向き合っていくために「自分自身の言葉で語る」ことも大切です。教科書など本に載っている借り物の言葉では患者さんの心に思いを届けることはできません。看護師、保健師を目指す学生にはこうしたことをしっかり理解してもらうよう、折に触れてアドバイスしています。

人となり

根っからの「温泉好き」

児童虐待の問題に飽きずに粘り強く関わってきた私ですが、プライベートの趣味はころころ変わって我ながら飽きっぽい性格だと思います。ただし「旅行好き」「温泉好き」だけは変わりません。友人や家族、年老いた両親などと理由を付けて温泉地に出かけています。また、児童虐待や母子保健に関わる講演活動など仕事で全国各地に出張に出かけますが、その折にも宿泊場所の近くに温泉があればできるだけ足を伸ばすようにしていますし、温泉付きのビジネスホテルがあればそこに泊まるようにしています。また最近、孫が生まれたので孫と遊ぶことも新しい楽しみになりました。孫と一緒に温泉に出かけるのはいつになるでしょうか?

体力&体重維持のエクササイズ

20年ほど前、米軍の新兵向けの基礎訓練「ブートキャンプ」をもとにした「ビリーズブートキャンプ」というフィットネスプログラムが大流行しました。私も体重維持を目的にエクササイズのDVDを購入し、出張先の温泉宿やビジネスホテルの部屋でもトレーニングを続けました。キックボクシングの動きを取り入れた有酸素運動がメインでかなりハードなエクササイズでしたが、2年間、1日も休まず続けました。この経験でストイックな自分の性格を自覚しました。今は週1~2回、ムリをしないペースでフィットネスジムに通っています。

▲旅先でも欠かさず「ブートキャンプ」に取り組んでいる先生/ジムでトレーニングをする先生

読者へのメッセージ

看護職に必要不可欠な人間理解のために、総合大学である武蔵野大学はとても恵まれた環境にあると思います。児童虐待予防を例にあげずとも看護や公衆衛生では法律や社会学の知見も必要となりますから、今後は学部を超えた学びの場なども実現させたいと思っています。

在学中は他学部の学生とも積極的に交流して、そのなかでそれぞれの学びを深めてください。そうした経験を通して自分自身を知り、同時に他者の価値観、そして誰もが人間としての尊厳を持つことの意味をくみ取れる支援者になってほしいと願っています。




取材日:2026年4月

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