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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第64回 有機合成化学 薬学部 薬学科 穴田 仁洋 教授

医薬品からIT機器まで 私たちの生活は有機化合物でできている

薬学部 薬学科 教授

穴田 仁洋Anada Masahiro

北海道出身。北海道大学薬学部卒業、同大学大学院薬学研究科、創薬化学専攻・博士前期・後期課程修了。1999~2002年まで米国ハーバード大学化学・化学生物学科で博士研究員として、同大学名誉教授で世界的な有機化学分野の研究者である岸義人教授のもとで研究活動を行う。帰国後は北海道大学で助教・准教授を務め、2017年より現職。専門は有機合成化学。

「有機合成化学」は石油製品・化成品やバイオマスといった安価で単純な構造をもつ化学物質から、新しい医薬品や新素材開発などにつながる付加価値の高い有機化合物を合成することを目指す研究分野です。本学薬学部「有機合成化学研究室」で学生とともに日々合成研究に取り組む穴田教授に、研究の面白さや意義についてお話をうかがいました。

研究の背景

恩師たちの教えや同僚たちからの刺激を受け、研究者の道へ

子どもの頃から私は「理科」が大好きで、学研の小学生向け学習雑誌『科学』を定期購読していました。この雑誌には毎号、簡単な理科実験などが行える付録があり、それが何よりの楽しみでした。物理や生物分野の付録も面白かったですが、個人的には特に「混ぜると色が変わる」「混ぜると光る」など、目の前で起きる化学反応を観察できる付録の時はいっそうテンションが上がりました。後に「化学」が好きになる片鱗がこの頃からあったのですね。

私が学んだ北海道大学では、当時1~2年次は理系・文系それぞれ大きな枠組みで学び、3年次より「学部学科」を選んで、より専門性高く学ぶカリキュラムでした。私は悩んだ末に薬学部に進学しました。1~2年次で「有機化学」を学びながら「薬になるような有用な有機化合物をつくってみたい」という気持ちが大きくなってきたからです。

3年生の終わり、当時薬学部に着任されたばかりの橋本俊一教授(現・名誉教授)の研究室でお話を伺う機会があり、そのエネルギッシュで緻密な有機化学の話に魅了(「圧倒」といった方が適切かもしれません)され、橋本先生が主宰される薬品製造学講座の門をたたき、結局、博士課程修了までお世話になりました。

博士後期課程修了後は橋本教授の推薦で、米国ハーバード大学化学・化学生物学科の故 岸義人教授の研究室で研鑽を積む機会を得ることができました。2023年に惜しくも亡くなられた岸教授は、フグ毒「テトロドトキシン」など、生き物が体内で作り出す複雑な天然有機化合物を数多く人工的に合成し、抗がん剤「エリブリン」開発にも貢献した有機合成化学・天然物化学の世界的第一人者の一人でした。岸先生の有機合成化学にとどまらない「科学」に対する深い洞察、そして研究室の多くの同僚の高い合成技術を目の当たりにして多くのことを学んだ経験とその際に築いた人脈が、現在の私の研究者としてのベースになっています。

研究について

「有機化合物」研究は緻密な計画に支えられている

多くの方が中学の「理科」や高校の「化学」で炭素Cを中心に水素 H や酸素 O、窒素Nなどが結びついた「有機化合物」について学んだことがあるでしょう。この有機化合物はほとんどの医薬品のほか、農薬や殺虫剤、あるいはパソコンやテレビのモニターに使われる液晶や有機ELといった工業製品など私たちの生活に広く利用されています。

私の専門である「有機合成化学」は、安価に入手可能で簡単な構造をもつ化学物質から、効果が高く安全な医薬品など付加価値の高い有機化合物を合成することを専門にする研究分野です。有機合成化学の研究が本格的に始まった19世紀前半以来、世界中で多くの研究者の叡智と努力の積み重ねにより大きな発展を遂げ、今日ではごく少量であれば合成できない化合物は存在しないといわれるほどにまで発展しています。

有機合成化学の研究では、目的とする化合物の構造が複雑になるに従って、正しい手順と多くの工程が必要となります。通常、新しい医薬品や機能性材料(従来の素材では不可能な性質や機能を備えた素材)を合成するためには最低でも10以上の反応を組み合わせなければなりません。たとえば先ほど述べました抗がん剤「エリブリン」はなんと60段階を超える工程数が必要でした。私たち有機合成化学の研究者の仕事はこの工程を編み出す「合成計画(戦略)」を立案することから始まります。

学生と一緒に天然物や医薬品開発に取り組む

合成計画ができれば、工程数と各工程の変換効率、納期などから逆算し、化合物を合成するために必要な原料を用意します。合成に必要な工程数が多くなればそれだけたくさんの原料が必要ですし、各工程で使用する反応剤や溶媒なども必要になります。さらに反応が終わった後に出てくる廃棄物を環境に悪影響を与えないよう適切に処理することも大切なプロセスとなります。

高性能の実験機器やコンピュータを使える現代でも、多段階の変換工程が必要とされる化合物を大量に得ることは困難を伴う課題です。私たち「有機合成化学研究室」では、さまざまな元素や有機化合物、さらには反応装置の特性を最大限に活用した合成戦略および方法論の開発、合成時の環境負荷を最小限に抑えることのできる高選択的・高活性触媒の創出を目指して、これまでにない構造様式と顕著な生物活性をもつ天然物や医薬品開発につながる化合物の効率的な合成研究に学生も大きな戦力として取り組んでいます。

今後の展望

世の中に役立つ化合物を一つでも多く生み出す

有機合成化学の研究者として願うのは、世の中のために役立つ有機化合物を一つでも多く作り出したいということです。研究室では新たな医薬品やそのベースとなるような化合物を作りだすことはもちろん、有機合成化学生命現象の解明に貢献できる化合物や次世代携帯端末の開発につながる機能性材料なども視野に入れた研究活動を展開しています。有機化合物は「作ったら終わり」ではありません。現在、私は学内外の研究者とコラボして、合成に成功した化合物を正しく評価するプロジェクトにも携わっています。

研究成果に自分の名前を残すことが夢

私の夢は自分の名前の付く反応または試薬を生み出すことです。有機合成化学分野では、この分野の進展に大きな価値がある反応や試薬(反応剤)に、開発者の名前を冠するという全世界共通の“しきたり”があります。もちろん自分の名前が使われる研究者はほんの一握り。簡単に実現できる夢ではありませんが、少しでもそこに近づけるように日々頑張っています。

教育

難しい有機化学を理解するための考え方

本学に関わらず、大学で有機化学の講義を行うとほとんどの学生が「難しい」と言います。もちろんそうでしょう。教えている私自身ですら、学生時代は「難しいなあ」と思っていました。でも、その難しさの向こうには、きっとこれまで見たこともない素晴らしい世界が広がっていると信じてコツコツと勉強を積み重ねた末に現在があります。

私は講義で学生に「有機化学の勉強法は語学と似ている」と教えています。世界中どのような言語でも文法の規則さえしっかり覚えておけば(もちろん丸ごと暗記しなければならない慣用句や例外はありますが)、あとはそこに単語を当てはめれば、相手に意味が伝わる文章が成立します。同様に有機化学の課題も基本となる事項(パターン)を組み合わせて考えれば解けるケースが多く、講義では学生にそうしたパターンを確実に身につけてもらえるよう意識しています。

化学式は世界共通言語

「語学」の話をしましたが、有機化学の反応式の内容や構造式が理解できれば外国語が分からなくても世界中の研究者の研究内容を理解することができます。有機化学の研究発表のスライドの多くは文字よりも化学式の方が多いので、ロシア語が分からなくてもロシア人研究者の発表内容を理解できます。しかも大学の学部レベルの有機化学が理解できれば世界トップクラスの有機化学の講演も80%程度は理解可能です。そうした意味では他の科学分野より大学生が世界最先端の研究にアクセスしやすいと言えるかもしれません。

人となり

歴史大好き!

実は理科の次ぐらいに歴史が大好きで、もし有機化学の道に進まなかったら、歴史を専門に学んでいたかもしれません。小学校高学年から大学にかけて「信長の野望」や「三國志」といった歴史シミュレーションゲームにハマっていました。それもパソコンゲーム以前、アナログのボードゲームがあった頃から遊んでいて、ゲーム仲間と自作のボードゲームを作ったこともあります。

この十数年、歴史研究の進展は著しく、鎌倉幕府設立や桶狭間の戦いといった有名なエピソードですら私が歴史を学んだ時代とはずいぶんと解釈が変わりました。そろそろちゃんと勉強し直さなければと思い、手始めに現在住んでいる東京・多摩地区の歴史本などを読んでいます。周辺には戦国時代の城跡や江戸時代の「お鷹場」(将軍が鷹狩りを楽しむ場所)などの歴史を味わえるスポットもあり、家族で歴史散歩を楽しむことも……。ただし最近は子どもたちの付き合いが悪くなっており、その成長を喜ぶと同時に少々寂しさも感じております。

▲穴田教授の愛読書
▲散歩中に撮影した写真

弓道で培った精神力・集中力

▲弓道部時代のお写真

高校生の時は弓道部に所属していました。入部当初は同好会だったので「そんなに厳しくないだろう」「一応運動部なので、“陰キャ”扱いされにくいのでは?」というかなり安易で不届きな気持ちで始めたのですが、実際には全国大会出場を目指すかなりハードな部活でした(朝練、夜練はもちろん、毎年大晦日には夜通し練習も)。ただ3年間の武道経験を通して、精神力と集中力はかなり鍛えられたと思います。大学・大学院でのハードな研究生活を乗り切ることができたのは弓道で精神を鍛えたおかげではないかと、厳しかった先生に今では感謝しています。全国大会出場も良い思い出になりました。

読者へのメッセージ

6年間薬学部で学ぶことで、薬剤師国家試験の受験資格が得られます。薬学部の学生、薬学部への進学を目指している中・高校生のほとんどはこの国家資格取得を目的としていると思います。もちろんその希望を叶えるための最大限のバックアップは惜しみませんが、一方で私たちの研究室での経験を通して企業あるいは研究機関などで「有機合成化学の研究を究めたい」という学生を一人でも多く輩出したいと思っています。昨年度の6年生は全員が学会発表を行い、そのうち1名は優秀発表賞を受賞、もう一人は大学院修士課程に進学しました。将来、本学薬学部で有機化学の教育・研究を担ってくれる教員が私の研究室から育ってくれれば、これほどうれしいことはありません。




取材日:2025年6月

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