第73回 建築史学 工学部 建築デザイン学科 佐藤 桂 准教授
アンコール遺跡に刻まれた歴史の謎を追う
工学部 建築デザイン学科 准教授
早稲田大学理工学部建築学科卒業。早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻博士後期課程修了。博士(建築学)。早稲田大学理工学研究所、東京文化財研究所、文化財保存計画協会を経て、2022年4月より現職(2025年4月より学科長)。日本イコモス国内委員会理事。専門は建築史、都市史、文化遺産学。
歴史を学ぶと聞くと、昔の出来事や年号を暗記することをイメージするかもしれませんが、教科書に載っている「歴史」の裏側には、まだ多くの謎が残されています。アジアの建築史を専門とする佐藤准教授が取り組んでいるのは、カンボジアのアンコール遺跡に残る痕跡をたよりに、その建築の歴史に隠された謎を解き明かす研究です。建築技術の推移や人々の思いを読み解くことで、暗記ではなく「考える歴史」の面白さを伝える佐藤准教授の研究を紹介します。
研究の背景
博士課程からアンコール遺跡を調査
大学4年生で建築史研究室に入り、大学院修士課程でエジプト調査(早稲田大学古代エジプト調査隊)に参加しました。最初の研究テーマは、アメンヘテプ3世の王宮址で発掘された彩画片から、室内の装飾画を復元するというもので、今思えば人生の宝物のような経験でした。その後、一度は民間企業に就職したのですが、研究の道を諦められず、フランス留学を経て博士課程に入学しました。留学先にフランスを選んだのは、その頃始まった日本政府によるアンコール遺跡調査と修復事業に参加したかったからです。博士課程ではコー・ケーという都市遺跡について、実地調査に基づいて寺院配置と都市構造を分析し、その後も毎年カンボジアでアンコール遺跡の建築調査を行っています。
研究について
アジアの宗教建築の変化をたどる
-カンボジア・バイヨン寺院で建造の痕跡を記録-
現在私が取り組んでいるのは、カンボジアのアンコール・トムの中心に位置するバイヨンという寺院の建造過程に関する痕跡調査です。
バイヨンは、アンコール王朝の最盛期である12世紀後半に、ジャヤヴァルマン7世によって建立された石造の寺院です。アンコール遺跡の中でも極めて特異な存在で、巨大な顔が彫刻された石塔が建ち並ぶ風景は、写真や映像で見たことがある方も多いのではないでしょうか。このバイヨン寺院は、内部が迷宮のように入り組んでいて、塞がれた窓があったり、入口を覆い隠すような壁があったり、柱が壁に埋まっていたり……不可解な構造があちこちに見られます。その原因は、建造中に増改築を繰り返したことにあると言われていて、これまでの研究では、少なくとも4度の設計変更があったことが明らかになっています。しかし具体的にどのような順序で建造されたのか、今でもわからないのが現状です。現在もバイヨン寺院に関するさまざまな調査研究が進められていますが、私はそのなかで建築史や美術史の観点から、建造過程を細かく観察しています。例えば、この夏の調査では、石工が刻んだマークや刻線などを記録して、それらの特徴について考察しているところです。
すでに世界有数の観光地になっているアンコール遺跡ですが、実はまだ分かっていないことばかりです。建築学的な研究のほか、遺跡の劣化要因を特定するための環境調査や構造的な解明、石材に付着する微生物の研究など、多くの専門家が知恵を出し合っています。断片的な手掛かりを集めて考える“謎解き”のような面白さがありますが、謎が解けるまでにはまだ長い時間がかかりそうです。
バイヨン寺院をはじめとするアンコール遺跡の調査と修復は、カンボジア独立までの間、旧宗主国のフランスが主導していました。近年、情報公開によって、当時のフランスの調査記録の多くがウェブ上で閲覧できるようになり、現在はそれらも集中的に見ています。修復記録を検証することは、研究において重要な意味を持ちます。公開された資料を検証し、必要に応じて研究史や修復史を見直すことも不可欠だと考えています。

東南アジアの建築研究から原点のインドへ
昨年からインドの仏教遺跡などを訪れ、インドから東南アジアに伝わったヒンドゥー教・仏教建築の系譜を改めて比較考察しています。
ヒンドゥー教や仏教の原点はインドにあり、寺院の建築様式もそこから世界へと伝播するのですが、面白いのは、その過程で建築様式が地域性に応じて少しずつ変化していくことです。ここから翻って、その土地に根付いた土着の文化や思想が見えてくるわけです。例えば日本の仏教建築は、日本ならではの固有の発展をしますが、ここに私たちにとって「仏教とは何だったのか」が凝縮されていると思います。建築は思想や世界認識の器でもあり、建築を通して見えてくる歴史があると思います。


▲昨年度から始めたインド調査 (左)アジャンター石窟群、(右)ナーランダ寺院遺跡
日本の古い町並みにみる地域の歴史
日本国内でも、古い町並みや建築の歴史調査を通して、伝統的な建築の歴史的意義や価値を明らかにするための研究を行っています。
例えば、私の出身地である富山県高岡市には、ファサードに銅板を張った家屋が数多く残っています。銅産業が盛んな地域であることから、木造家屋の防火対策として銅板が張られたものと考えられていますが、調べていくと、それだけではない地域の文脈や歴史的な理由がありそうです。資料を調べたり、学生たちと一緒にフィールドワークを行い、住民の方にお話を聞いたりしながら、なぜこの場所に、これほど多くの銅板張り建築が残っているのかを考えています。地元の人にとっては「当たり前」すぎて気付きにくいこと、逆に、外から見ているだけでは気付かない事情があることもわかり、学生にとっても私にとっても、貴重な世代間交流、異文化交流のような体験になっています。
今後の展望
先人の「知恵と工夫」に学び未来を創造
今、日本の建築界は、戦後のスクラップ・アンド・ビルドの時代から、環境に配慮した、持続可能な開発の時代へと大きく舵を切っています。その時、私たちが最も参考にすべきは、私たちの祖先が伝統的に形成し、継承してきた建築の「知恵と工夫」だと思っています。
建築の「知恵と工夫」の中には、そこに費やされた先人たちの努力の蓄積があります。もちろん、それだけで現代の気候変動などに対応することは困難ですから、新技術の開発はなくてはならないものです。ただ、目先のことにとらわれ、短期的な視点でつくられた建築は、果たして未来に継承されていくでしょうか。人がつくり、継承されてきたものには、受け継がれる理由があります。心が落ち着く雰囲気、暮らしやすい空間、環境と調和した生き方のヒントは、伝統の中にすでにあるはずです。建築の歴史を研究し、その意義や価値を発信することで、自然と調和しながら生きる未来の創造につなげたいと考えています。
また最近、女性目線での歴史解釈についてよく考えるようになりました。建築史の分野でも、これまでは男性目線での解釈が中心でしたが、そこに女性の視点を加える必要性を感じることがあります。それが具体的にどのようなものか、まだはっきり見えているわけではありませんが、女性の立場から改めて建築史を語ることで、これまで見過ごされていたような気づきや、歴史の新たな見方が得られるのではないかと思います。女性の生き方は建築と密接に関係してきたはずで、それは日常の些細な出来事や、男性的な権威の影になり、光があたらなかったところにあるように思います。
教育
「考える歴史」の面白さと魅力を伝えたい
中学や高校の歴史は、暗記すればテストの点が取れたと思います。しかし本来、歴史の解釈はさまざまで、答えがあるわけではありません。建築史の分野でも、今の通説が今後の研究の進展によって覆る可能性は大いにあります。そのため授業では、学生に基本的な情報を示した上で、「君たちはどう思う?」と問いかけるようにしています。例えば、日本に仏教が伝来した当初、伽藍(がらん)の中心は塔だったのですが、法隆寺では五重塔と金堂が東西に並んで配置されています。その理由について、これまでにも諸説が述べられてきましたが、「正解」は誰にも分からないのです。授業では、学生に「なぜそうなっているのか」を考えてもらい、想像力を膨らませてもらうよう心がけています。その過程を通じて、自分の頭で考え、解釈する歴史を伝えたいと思っています。
その他に取り組んでいる研究室活動として、故・伊藤延男先生から武蔵野大学に寄贈された約3万点におよぶ膨大な資料を整理しながら、戦後日本の文化財保護行政の歩みや、歴史的建造物の保存修復に関する理念や手法に関する研究をしています。文化遺産保護に取り組む国際NGO「国際記念物遺跡会議(ICOMOS)」の名誉会長も務められ、日本人として関野克先生に続き2人目の「ガッゾーラ賞」の受賞者である伊藤先生は、真の国際人でありながら、伝統的な大工の家系に生まれたこともあって、日本の建築文化への深い理解と洞察を私たちに残してくださっています。先の長い道のりではありますが、一つひとつの段ボール箱を「宝箱」だと思って開封しながら、学生たちと一緒に整理作業を進めています。
人となり
新聞の人生相談に涙
趣味と言えるか分かりませんが、新聞の投書欄や読者の声、人生相談のコーナーを読むのが好きです。いろいろな人の人生に触れて、読みながら泣いてしまう時もあるんです。人柄や人生が見える読み物は面白いですね。先に申し上げたアンコール遺跡修復の資料の中にも、現場の責任者であったフランス人保存官の日記があるのですが、読んでいると書いた人の性格や人間関係が垣間見えて、研究とは違う面白さがあります。
役者の「後ろ」が気になる
読書も好きですが、映画やドラマを観る時は、どうしても役者さんの「後ろ」が気になります。ロケ地がどこで、どんな家で、どんな室内で、家具は……、と背景ばかり細かく観察してしまうんです。特に歴史物の作品は、厳しい目で時代考証をしてしまうので、時々「いやこれは絶対あり得ない」などと呟いては、息子に「まあまあ」といさめられています。
最近の作品では、TBSドラマ「海に眠るダイヤモンド」は何度も観ました。炭鉱が稼働していた時代の端島を生き生きと描き出していて、脚本も演出も役者さんの演技も、そして長崎や端島の場面も大変素晴らしかった。ただ、セットの石垣の積み方だけは、気になりました。「あんな積み方しないから」と(笑)。とはいえ、本当に素晴らしいドラマでした。
最終回では、端島が世界遺産に登録されたことにも触れられていました。二度の世界大戦を経験し、その反省を込めて採択されたユネスコの世界遺産制度は、大変高尚な理念にもとづいているのですが、地元の人たちに本当に喜ばれているのか、改めて考えさせられるきっかけにもなりました。
読者へのメッセージ
建築は私たちの周りに当たり前のように存在していますが、それだからか、あまり関心がない人も多いのではないでしょうか。しかし、そのデザインを楽しみ、空間を味わい、歴史に目を向けるだけでも、毎日の生活が豊かになるし、地域への愛着が生まれたり、町並みの変化や伝統の美しさに気づけたりなど、多くのことが得られるはずです。変わっていく町並みを、ただ眺めるのではなく、自分たちの生活や人生の一部として、どんな場所にしたいのか、一緒に考えていきませんか。
取材日:2025年11月