第78回 仏教学 教養教育部会 新作 慶明 准教授
仏教のものの見方を現代にいかすために
教養教育部会 准教授
慶應義塾大学文学部人文社会学科・東京大学文学部思想文化学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻博士課程修了。博士(文学)。オーストリア科学アカデミーアジア文化・思想史研究所客員研究員、武蔵野大学通信教育部人間科学部助教、武蔵野大学経済学部(教養教育)講師を経て、2020年4月より現職。専門は仏教学、インド大乗仏教。
仏教の根本精神である四弘誓願(しぐぜいがん/ほとけのねがい)を建学の精神とする 武蔵野大学では、全学共通の基礎課程や副専攻で仏教を通して生き方や社会を考える授業を設けています。特に若い世代には「難しい」「昔のもの」といったイメージが強い仏教ですが、仏教のものの見方は、実は現代の私たちが日常の中で感じたり考えたりしていることとも深くつながっています。インド大乗仏教を専門とする新作准教授は、仏典の研究を進めるとともに、仏教のものの見方を現代にいかすことを目指して、学生が仏教を身近に感じられる授業づくりを実践しています。
研究の背景
“腑に落ちた”仏教思想との出合い
私は浄土真宗本願寺派のお寺に生まれ、現在仏教の研究や教育に携わっていますが、元々仏教思想にそれほど興味を持っていたわけではありません。その私が仏教研究の道に進んだのは、大学時代にロシア哲学を専門とするゼミの先生と出会ったことがきっかけでした。先生は仏教思想にも詳しく、ゼミの後に研究室でお茶を飲みながら、よく仏教のお話を聞かせてくださいました。そこで先生に勧められて読んだ唯識 (ゆいしき/あらゆる存在は“心の現れ”にすぎないという見解)に関する本の中で、「熏習(くんじゅう)」ということばに触れ、初めて仏教思想に強く興味を持ちました。
熏習とは、お香をたくと服に匂いが染みつくように、私たちの日々の行いや思いが心の奥深くに染み込んでいくことをいいます。そして、そのように染み込んだ行いや思いが、次の行いや心のありように影響を与えると考えられています。例えば、部屋の中でごみ箱に向かってごみをポイと投げると、その「ポイ」が心に染みつきます。さらに、的を外してごみが床に落ちても「まあいいか」と思えば、その「まあいいか」も心に染みつきます。そうやって染みついた「ポイ」や「まあいいか」が心の奥に蓄えられ、条件がそろうと、やがて同じような行いや思いとして現れやすくなる。こうした「熏習」は、私にはとても“腑に落ちる”と感じられました。そして、仏教を学問としてより深く知りたいと思うようになったことが、今の研究活動につながっています。
研究について
インドの仏典を再校訂
私の研究分野は、インド大乗仏教、とりわけ空の思想を重視する中観派です。中でも、7世紀頃にインドで活躍した中観派の論師チャンドラキールティの著作『明句論(プラサンナパダー)』を、主な研究対象としています。
『明句論』は、2~3世紀に空の思想を体系化した龍樹(ナーガールジュナ)が著した『中論頌(ちゅうろんじゅ)』の注釈書に当たります。『中論頌』は、インドのみならず、チベットや中国、日本の仏教にも極めて大きな影響を与えたテキストです。一方で、韻文で簡潔に書かれているため解釈の幅が広く、後代の人々がいくつかの注釈書を残しています。そのうちの一つである『明句論』について、サンスクリット語の写本やチベット語訳をもとに、テキストの校訂に取り組んできました。
仏教学では、原典に基づく考察が広く行われており、原典テキストの精度が研究の土台となります。そのため、原典テキストを批判的に検証し、さまざまな資料を用いて「校訂」する作業をとても大切にしています。『明句論』の場合、100年以上前にベルギーの研究者によって校訂され、そのテキストを用いて多くの研究が進められてきました。ただ、現在の視点から見ると、見直すべき点も少なくありません。そこで私は、新たに見つかった資料も参照しながら、『明句論』の一部を再校訂し、研究としてまとめました。
変わらない本質はない=「空」の思想
思想の面では「空(くう)」を専門としています。空とは「すべてのものやことには、固定的で変わらない本質はない」ということであり、中観派だけでなく、大乗仏教の基礎をなす思想です。
本来、世界のあらゆるものやことは「空」、つまり変わらない本質を持たないとされます。しかし私たちは、そうした空であるものやことをことばによって固定化し、「変わらない存在」であるかのように捉えてしまいます。そして、成功か失敗か、優れているか劣っているか、といった判断を重ねていきます。
例えば、就職活動で第1志望の会社に採用されず、第10志望の会社からようやく内定をもらったとします。それを「就職活動に“失敗”した」と判断し、自分を責めてしまうかもしれません。このとき私たちは、「第1志望=成功」「それ以外=失敗」という自分のものさしで分けて、価値判断をしているのです。でも、もし第1志望が自分に合わない職場で、第10志望で本当にやりたい仕事に出合えるのだとしたら、本当に“失敗”でしょうか?
第1志望に不採用だったことも、第10志望に入社することも、本来は「空」。つまり、それ自体は成功でも失敗でもありません。それにもかかわらず、私たちはそこに「失敗」ということばのラベルを貼り、「自分は失敗したダメな人間だ」という思いにとらわれてしまいます。空の思想は、そうした私たちのものの見方そのものを問い直します。
近年、東洋哲学に触れたことをきっかけに、自分や世界の捉え方が大きく変わった体験を語る本が注目を集めています。その本の中では、「この世界はすべてフィクション」という印象的な表現で、「空」の思想がわかりやすいことばで語られていました。
空の思想や、私自身が仏教研究を志すきっかけになった熏習は、たとえ仏教のことを全く知らない人でも、聞けば「なるほど、そうかもしれないな」と感じられる身近な話ではないでしょうか。実際、仏教のものの見方には、そうした気づきを促す要素がたくさんあります。そこで最近は、より多くの方に仏教の魅力や可能性を伝えていくため、授業の進め方や伝え方についても模索しているところです。
今後の展望
仏教のものの見方を伝え、現代人の心を楽に
仏教には2500年の歴史があり、その歩みの中で多様な展開をみせてきました。しかし一貫して言えるのは、仏教は「苦からの解放」を目指しているということです。科学技術の進歩によって、私たちの生活は本当に便利になりました。とはいえ、不便が解消されたからといって、私たちの苦しみがなくなったわけではありません。時代が変わっても、人が抱える根源的な苦しみは変わらず、その苦しみが軽くなっているとも言い難いのではないでしょうか。
最近、私の授業を受けた他大学のある学生が、「空の思想を知って、心が軽くなりました」とコメントを寄せてくれました。空を学ぶことで、「本当の自分とは何か」や、自分がとらわれていた「こうあるべき」という考えが解体されたのではないでしょうか。私は、仏教の思想を現代にいかしたいと願い、研究の道を志しました。基礎研究として仏典の原典を重視する姿勢は今でも変わりません。その上で、仏教を通して心が軽くなった、楽になったと感じてもらえる人が一人でも増えるよう、仏教のものの見方に触れていただく取り組みにも力を入れていきたいと考えています。
教育
「実践知」としての仏教を学んでほしい
私は今、全学共通の基礎課程「武蔵野INITIAL」の建学科目や、副専攻(仏教プラクティスコース)の授業を担当しています。
武蔵野大学に入学した学生の多くが、仏教に対して「難しそう」「古くさい」といったイメージを持っているように思います。けれども、皆さんが意識していなくても、仏教のものの見方は日常のさまざまなところに息づいています。そこで、授業では動画やヒット曲、漫画など、学生に身近なコンテンツを取り入れながら、日常の中にある仏教のものの見方に気づき、親しんでもらえるよう努めています。
そうしたコンテンツの中には、実は学生から「これって仏教的じゃないですか?」と教えてもらったものも少なくありません。以前学生に教わって「なるほど!」と思い、よく授業で「空」を説明するときに使っているのが、ピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」という歌です。“ぼくのおとうさん”は会社では会社員、食堂に入るとお客さん、歯医者へ行けば患者さんだ、という内容の歌詞なのですが、これは「空」の思想を考えるうえで、とてもわかりやすい例です。
“お父さん”としての固定的な本質があるわけではなく、関係性や立場によって「名指し」が変わるということがよくわかりますよね。学生にとって身近な表現や日常の感覚から出発することで、「空」という一見難しそうな思想も、自分の問題として考えてもらいやすくなるのではないかと感じています。
また、仏教プラクティスコースは、どの学部・学科の学生にとっても、それぞれの専門分野での学びの土台となる、「ものごとをありのままに見るチカラ」と「すべてのいのちを大切にする心」を育むことを目的として設けられています。格差や社会の分断といった現代社会の深刻な課題に向き合うためには、多角的な視点や、自己中心的ではないものの見方が不可欠です。仏教プラクティスコースでは、仏教の学びの両面とされる「学(学問)」と「行(実践)」の観点から学びを深めていきます。学生の皆さんには、授業を通して、仏教のものの見方を単に「知識」として蓄えるのではなく、生き方を考えるための「実践的な知」として身につけてほしいと願っています。
人となり
「考える」ために「動く」
小さい頃から、サッカーはプレーするのも観るのも好きです。コロナ禍の前までは、地元の仲間のチームに入ってプレーしていました。今は、家族で公園に出かけて、子どもたちと走り回ったり、自然の中を散歩したりするのが楽しいですね。身体を動かすと気分が切り替わりますし、同じ場所に座って考え続けるよりも、途中で少し身体を動かしたほうが、かえって考えがまとまることもあります。
自然の中を歩く楽しさは、留学していたウィーンで知りました。ウィーンに留学していたと言うと「何を勉強していたのですか」と聞かれることが多いのですが、実は、ウィーンは仏教研究の分野では世界的に知られた研究拠点の一つです。住んでいたアパートの近くには世界遺産のシェーンブルン宮殿があったので、その庭を散歩したり、ウィーン郊外に広がる森を散策したりしていました。とても気持ちがよく、考えも整理されました。留学先のオーストリアには、世界的に有名な仏教学の先生方もいらっしゃいましたが、その中には、自然の中を散策するのが好きな先生もおられたとうかがいました。思索には、運動や散歩が大事なんじゃないかと思いますね。


▲留学中にふれたオーストリアの自然
価値観をつくった海外での経験
私がウィーンに留学していたのは、紛争の続く地域からたくさんの難民がヨーロッパに入ってきた時期でした。現地で難民の方々からお話をうかがう機会があり、公的な立場で働いていた方が命からがら海を渡ってきた話や、ヨーロッパに向かう途中で家族を亡くした方の話を聞く中で、仏教の慈悲を具体的にどう体現していくかについて考えさせられました。SDGsの授業などでは、そうした経験を踏まえて話をすることもあります。
海外経験と言えば、学生時代はよくバックパッカーとして各地を旅していました。サッカー好きですから、スペインでは念願だったFCバルセロナの試合も観に行きました。ヨーロッパのほかにも、インドや東南アジアの国々などを旅し、少数民族の集落を訪れたこともあります。そうした場所では、決して物質的に豊かとは言えない生活の中にも、確かな「しあわせ」があることに気づかされ、「心の豊かさ」や「生きていく上で大切なこと」を考えさせられました。海外でのこうした経験が、今の自分の価値観の一部を形づくっているのだと思います。
読者へのメッセージ
空の思想は、今私たちが捉えているものやことが、本当に「ありのまま」であるかを問いかけてきます。それは、私たちの中にある固定観念や思い込みを、一度立ち止まって見つめ直すという、現代にも通じる視点です。何が本当なのかが見えにくい現代、そして、これから訪れる激動の時代において、「批判的にものやことを見るチカラ」は、ますます重要性を増していくでしょう。また、空の思想によって自分へのこだわりや固定観念が和らぐと、他者や世界の見え方も変わってくると考えられています。私たちが自分の生き方を考えるうえでの大切なヒントは、空の思想の中に見いだせるのではないでしょうか。ぜひこうした仏教のものの見方に触れ、生き方や考え方の幅を広げていただけたらと願っています。
取材日:2026年1月
- 副専攻(仏教プラクティスコース)
https://www.musashino-u.ac.jp/basic/buddhist_studies/ - 武蔵野INITIAL
https://www.musashino-u.ac.jp/basic/initial/ - 仏教学専攻[修士課程]
https://www.musashino-u.ac.jp/academics/graduate_school/course/buddhist_studies/major/index.html - 仏教学専攻[博士後期課程]
https://www.musashino-u.ac.jp/academics/graduate_school/course/buddhist_studies/major/buddhist_studies_d.html