学問の地平から
教員が語る、研究の最前線
第7回 宗教学・近代仏教
本学の教員は、教育者であると同時に、第一線で活躍する研究者でもあります。本企画では、多彩な教員陣へのインタビューをもとに、最新の研究と各分野の魅力を紹介していきます。
第7回 宗教学・近代仏教教養教育部会 碧海 寿広 准教授
近現代の日本人は、仏教に何を求め、どう受容してきたのか
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Profile
慶應義塾大学経済学部卒業。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。公益財団法人国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター研究員、龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員を経て、2019年4月より現職。2013年、第29回暁烏敏賞・第一部門(哲学・思想に関する論文)入選。近著に『科学化する仏教―瞑想と心身の近現代』(KADOKAWA)、『仏像と日本人-宗教と美の近現代』(中公新書)など。
みなさんは、「仏教」と聞いて、何をイメージしますか? 古代インドのお釈迦様でしょうか。日本の平安時代や鎌倉時代に高僧たちが開いた、さまざまな宗派でしょうか。あるいは、お葬式や観光地の古寺でしょうか。
長きにわたり、多くの日本人の生き方にさまざまな影響を与えてきた仏教。近現代の日本において、仏教が人々のニーズに応じてどう受け入れられてきたかを解き明かし、その過程をヒントに「現代人の役に立つ仏教」の在り方を模索する、碧海寿広准教授の研究をご紹介します。
専門分野を学ぶきっかけ
経済学部から宗教学の道へ
-哲学への入口はアダム・スミス-
私の専門は宗教学や思想史ですが、実は、大学時代は仏教や宗教とはほど遠い経済学を学んでいました。実家がお寺なので、元々仏教は身近だったのですが、大学進学の時期は、そこにあまり興味を持てませんでした。むしろ、離れたいと思っていたほどです。

宗教学の道に進む入口になったのは、大学の経済思想史の講義でした。近代経済学の創始者であるアダム・スミスについて学び、スミスが単に経済学者であるだけでなく、偉大な哲学・倫理学者でもあったことに興味を持ちました。そこから哲学や思想に関するいろいろな本を読み始め、次第に「思想としての宗教」を意識するようになったのが、宗教や思想を研究するきっかけになっています。ちょうどその頃、尊敬していた評論家の宮崎哲弥さんが、大学祭のトークイベントで仏教について熱く語っている姿を見て、「宮崎さんがこれほど入れ込むなら、仏教は意外と面白いのかもしれないな」と思うようになった、というのも、きっかけの一つですね。
-「思想としての仏教」-
仏教を含め、宗教には、さまざまな向き合い方があります。「信仰」という形で仏教に向き合う人にとって、仏教は、暮らしや生き方の基盤です。必ずしも議論したり学問的に追究する必要はなく、むしろ、それを余計なことだと感じる人もいるかもしれません。

一方で、私が興味を引かれたのは、「思想」や「哲学」としての仏教です。なぜこの信仰が生まれたのか。どんな心のメカニズムで人間は「神」や「死後の世界」や「霊魂」を信じるのか。通常の意識を超えた「悟り」という心の状態とは何なのか――。そうした宗教にまつわる事柄について、人間は徹底的に考え、行動し、いろいろな文化を生み出してきました。その歴史をきちんと理解したい、という思いが研究の根本にあります。そして、思想としての仏教と向き合うことを、とても面白いと感じています。
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研究内容
近現代という時代と仏教の変容
私が研究しているのは、近現代の日本における仏教です。より詳しく言えば、仏教が明治期から現代までにどう変化し、人々に受け入れられてきたのかをテーマに、研究を続けています。

明治期は、日本の社会のあらゆる分野が大きく変化した時代です。長い間、多くの日本人が信仰の対象としていた仏教も、例外ではありませんでした。西洋から入ってきた科学の知見が教育に取り入れられるようになると、それまで信じていた「極楽浄土」や「地獄」に対して、科学の視点から疑問を呈する人が増え、さらに、仏教そのものが時代遅れだととらえる風潮も出てきました。

一方で、そうした時代にあっても、仏教は人々のニーズに十分応えうると訴える人もいました。彼らは、心の安らぎや、生きる上での精神的基盤を与えるという仏教が持つ力には、まだまだ可能性があると考えていました。そして、科学が世の人の常識になった時代に、なおも残る仏教や宗教の意義を深く考察し、論理的に説明し、社会に伝えていきます。私は、そうした時代と思想の流れを分析しながら、仏教の考え方の中でも、何がその時代の人々を納得させたのかを明らかにし、人々が仏教に何を求めるのかを学問的に論じています。
「親鸞ブーム」はいかにして生まれたか
-カリスマ僧侶と『歎異抄』-
明治期、仏教の受容のされ方は、大きく変化しました。その特徴的なものが、教養文化の中に仏教が位置づけられていった、という動きです。

近代以降、日本では、個々人がそれぞれの人間性を磨くために、哲学や歴史に関する読書、美術・音楽・演劇の鑑賞などに積極的に取り組む教養文化が発達します。仏教は、その教養文化の中で、大きな役割を果たしてきました。そして、「教養文化としての仏教」は、江戸時代までに寺院が中心になって伝えてきた「仏教」とは、異なる受容のされ方をしています。

仏教の受容のされ方の変化が見える分かりやすい例として、明治・大正期に起きた「親鸞ブーム」とも呼べる動きがあります。

明治期、カリスマ的な人気を集める浄土真宗の僧侶たちが現れ、親鸞の魅力を語るようになりました。彼らはいわゆるインテリ層で、大学で西洋の哲学や思想を学んだ上で、親鸞の教えは西洋哲学と同じ土俵で論じて遜色ないものだと考えていました。そして、彼らに学び、感化される若い知識人も徐々に増えていきます。そこで親鸞がいかに魅力的かを伝えるテキストとなっていたのが『歎異抄』です。
-戯曲や小説でファン拡大-
『歎異抄』は親鸞が書いた書物ではなく、親鸞が語った言葉を弟子がまとめたものです。親鸞の教えの中でよく知られているものに「悪人正機」がありますが、「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という有名な一節も、『歎異抄』のものです。『歎異抄』には、悪人正機のような強いパッションに基づく親鸞の教えが、比較的コンパクトにまとまっています。若い知識人が学ぶテキストとしては、うってつけの本だったのです。

さらに、大正期になると、倉田百三が戯曲「出家とその弟子」を発表します。この戯曲は、親鸞と弟子の関係性を描いたもので、東京の帝国劇場をはじめ、全国各地で上演されました。また、読み物としても、西田幾多郎の『善の研究』や和辻哲郎の『古寺巡礼』などと並んで、教養人の必読書の一つに挙げられるほど広く読まれていきます。ほかにも、親鸞をテーマにした小説などが次々と出版され、「親鸞ファン」はどんどん増えていきました。

こうして、知識人やエリート層から始まった「親鸞に学ぶ」というスタイルが、本を通じて一般化した結果、親鸞は最も人気のある仏教者として、まるで国民的スターのような存在になっていきました。さらに時代を経た現在も、親鸞をテーマにした小説や『歎異抄』を解説する本は、数多く出版され続けています。明治に端を発する「親鸞ブーム」の流れは、今なお続いているのかもしれません。
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“読書で弟子入り”。新たな仏教との関わり方
親鸞には、自身が書いた『教行信証』という主著がありますが、こちらは内容が難しいということもあり、それほど広く読まれているわけではありません。一方、広く読まれるようになった『歎異抄』と「出家とその弟子」は、どちらも弟子の目線で読み進められる構造になっています。ですから、『歎異抄』や「出家とその弟子」を読む人々には、「読書によって親鸞に弟子入りする」ような感覚があったのだろうと考えています。数少ないエリート層がカリスマ僧侶から直接話を聞いていた頃に比べて、本を介してもう少し手軽に親鸞の考えに触れられるようになり、親鸞の教えが「教養文化」として広く一般にも裾野を広げていったのです。

江戸時代までの親鸞は、あくまでも浄土真宗という一つの宗派の開祖であり、阿弥陀如来の化身のようにあがめられている存在でした。ですから、本を通じて仮想的に弟子入りする、という受容のされ方は、明治以前にはなかったものです。

こうした動きが広がった背景には、伝統的な信仰心が徐々に薄れ、それまでの流れとは違った仏教の受け入れ方を求める人たちの存在がありました。そのニーズに応えたのが、読書というスタイルだったと考えられます。また、「本を読む」という行為は個人の体験です。「お寺に集まってみんなで念仏を唱える」といった関わり方から、一人一人が宗教をどう受け止めるかという個人主義的な関わり方へ、仏教との関わり方が変化していたことも、読み取ることができると考えています。
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碧海准教授の著書