第9回 経営学(コーポレート・ガバナンス) 経営学部 会計ガバナンス学科 海野 正 教授
産業構造が変化する今、会計プロフェッションに必要な能力とは
経営学部 会計ガバナンス学科 教授
海野 正Tadashi Umino
慶應義塾大学経済学部卒業。米国ペンシルバニア大学経営大学院(ウォートンスクール)修了(MBA)。2013年まで株式会社あおぞら銀行(株式会社日本債券信用銀行)に勤務。IR室長、リスク管理部長、会長秘書役チーフ・エグゼクティブ室長、人事部長等を歴任し、執行役員として人事・IT・事務管理部門、コーポレート・セクレタリー室、内部監査を担当。退職後、2020年3月まで日本公認会計士協会で専務理事を務めた。2020年4月より現職。
環境問題の深刻化、グローバル化による企業活動の拡大、企業の不祥事などを背景として、多くの企業が改めて見直しているCSR(企業の社会的責任)やコーポレート・ガバナンス(企業統治)。企業経営において、単に利益を追求するのではなく、社会との共生が重視されるようになった今、会計のスペシャリストには、数字には表れない非財務情報にも精通し、正しく分析する能力が求められています。 海野正教授は長年にわたり、金融機関でコーポレート・ガバナンスや内部監査、IR関連の業務に責任ある立場で携わってきました。その経験と問題意識を活かし、実務家の教員として、会計のプロフェッショナルを目指す学生に確かな知識を伝え、自ら考えを深める力を育てています。
研究の背景
社会の役に立ちたいという思いで教員に
私は、大学を卒業後、34年間金融機関に勤務していました。その間、経営計画や財務、インベスタリーリレーションズ(IR・経営情報開示)、広報、内部監査などに携わりましたが、こうした業務は会計の分野とも深くかかわるものです。実務家の立場から、その経験と知識を学生のみなさんに伝え、成長をサポートしたいと考え、教職に就きました。 武蔵野大学で教えることを決意した理由は、もう一つあります。それは、長年抱き続けていた「社会の役に立ちたい」という思いです。 金融機関で働くことを選んだのは、金融を通じて企業を支援し、経済や社会の発展を広い範囲で支えたいと考えたからでした。しかし、バブル経済とその崩壊により、仕事を通じて世の中の役に立ちたいと思っていたにもかかわらず、勤務していた銀行が公的な支援を受けることになりました。国の税金を使っての支援です。そのことが、私に「公の利益のために働く」ことの重要性を強く認識させました。 銀行の再建の目途がついたところで、さらに広く社会に貢献したいという思いから、日本公認会計士協会に身を転じました。公認会計士は、企業の財務情報の正しさを保証することで、経済の健全な発展に貢献する重要な社会的なインフラです。その公認会計士の仕事を支えることで、間接的に世の中の役に立てると考えたのです。 7年にわたる任期の後、今度は教職へのお誘いをいただきました。これから社会で活躍する学生のみなさんに直接経験をシェアし、成長のお役に立つことも、社会に貢献することに繋がるのではないか、という思いに背中を押され、新しい道への挑戦を決意しました。昨年4月に着任したのですが、コロナ禍によりオンライン授業となり、この1年は試行錯誤の連続でした。慣れない環境で新生活がスタートした1年生に共感しながら、より良い授業とするために工夫を重ねています。
会計のプロに不可欠な「非財務情報」の知識
―帳簿の数字だけでは役割を果たせない―
会計ガバナンス学科は、会計の分野で専門性を発揮するプロフェッショナルを育成する役割を担っています。必要な知識を学ぶさまざまな科目のうち、私は、コーポレート・ガバナンス(企業統治)とCSR(企業の社会的責任)の分野の科目を担当しています。どちらも、過去の二つの仕事での経験と関わりの深い領域です。 公認会計士をはじめ、会計プロフェッションには、当然の基盤として、簿記、会計、税務、監査などの専門性が求められます。しかし今、こうした分野の知識だけではその責務を十分に果たすことが難しい時代が来ています。 今日、会計のプロに必要とされているのは、会計の専門性はもちろん、関連する経営戦略、ファイナンス、マーケティング、さらに社会や環境への対応についても幅広く理解し、分析し、行動する力です。帳簿の記帳のような、狭い範囲での仕事は、AIのような新しいテクノロジーに置き換えられてしまうでしょう。
―企業統治やESGを見極める力―
公認会計士の役割は、「独立した立場において、財務情報の信頼性を確保する」ことです。しかし、現代の企業において、その役割を果たすためには、財務情報という「数字」の背景にあるさまざまな要因を考慮しなければなりません。たとえば、不正な会計処理が発生してしまう原因の一つに、経営を執行する人と監督する人のバランスが取れず、けん制が働いていないケースが挙げられます。こうした状況を防ぎ、公表される財務情報の信頼性を担保するためには、企業内のガバナンスにも目を配ることが必要になってくるのです。 さらに近年、会計の世界では、ESGに関する情報を理解することの重要性が増しています。ESGは環境(Environment)、社会(Social)、企業統治(Governance)の頭文字を取った言葉で、環境や社会への配慮、企業統治の向上を通じ、企業の価値を高めようとする取り組みを指します。 経済と社会のグローバル化が進み、企業が責任を果たすべき範囲も、大変広くなりました。現代の企業は、自社の利益だけを追求するのではなく、広く社会に配慮した企業活動をしていなければ、企業価値の向上や持続的成長は望めません。また、そこに戦略上の勝機があります。財務諸表の数字に直接表れないESGのような非財務情報もまた、将来の業績を大きく左右するのです。こうした理由からも、企業の監査を行う上では、数字には表れない情報も見極めていく必要があるわけです。
社会の構造的変化に対応する「長く広い視点」を
昨年、政府は、2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする脱炭素社会を目指すことを宣言しました。 カーボンニュートラルが国の施策として明確に打ち出されたことで、今後数十年の間に、産業構造はダイナミックに変化するでしょう。構造的な変化は、環境への直接的な対応に限ったことではありません。金融の世界でも、異業種企業が参入し、銀行も事業モデルを変革しつつあります。 こうした時代の企業において、中核人材となる今の学生には、目の前の短期的な変化に振り回されるのではなく、10年20年のスパンで物事を考える力、構造的な変化の先にある世界を想像する力を付けてほしいと思います。 さらに、社会貢献や環境への配慮は確かに大切なのですが、それにはコストがかかります。再生エネルギーの利用拡大、自動車のEV化などの製品の変化、そして変化に伴うコストの上昇。こういったことの折り合いをどうつけ、どう道筋をつけていくかの感覚は、会計のプロにとって非常に重要になると思います。長く広い視点やバランス感覚を身に付けてもらうため、授業には討論や対話を取り入れ、学生が他者の多様な意見に触れながら考えを組み立てていく工夫をしています。
今後の展望
コーポレート・ガバナンス・コードの再改訂を注視
コーポレート・ガバナンスについては、これからの方向性に大きな注目が集まっています。特に日本では、2021年にコーポレート・ガバナンス・コードの再改訂、さらに東証の市場制度の見直しが行われます。この1年はさまざまな議論がなされていくことが予想され、あらゆる組織に関連・影響するものとして、私も注視しています。 コーポレート・ガバナンス・コードとは、上場企業における企業統治の指針となるものです。今回の再改訂に向けては、すでに、独立社外取締役の増員など「取締役会の機能発揮」、女性や外国人の管理職登用の目標や状況を公表する「企業の中核人材の多様性確保」といった項目を盛り込むことなどが提言されています。 より適切なコーポレート・ガバナンスが求められる一方で、何でもコーポレート・ガバナンス・コードに盛り込めばいいというものではない、という考え方もあります。果たして「規制」として行うべきことなのか、それとも、自主的なルールで対応していくことなのか。真に必要なものを取捨選択していく必要があると思います。 さらに、2022年4月には、東証の市場区分が、現在の4区分からプライム、スタンダード、グロースの3区分に再編されます。このうち、現在の1部上場企業の移行が想定されている「プライム市場」では、一段と高い水準のガバナンスが求められることになります。コーポレート・ガバナンスにまつわる日々の動向を追いながら、必要な情報を授業でも共有していきたいと思っています。 また、ESG分野での国際協調や関係機関の連携の動きにも、大きな関心を持っています。ESGに関しては、評価機関や開示基準設定機関が数多く存在していたことから、信頼できる統一の指針に集約し、情報を開示する側も利用する側も使いやすい形にまとめていく必要性が指摘されていました。主要国の金融当局からなる金融安定理事会が設置した気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)の提言に沿った開示活用の機運が高まっているほか、まさにここ数カ月の間にも、米サステナブル会計基準審議会(SASB)と国際統合報告委員会(IIRC)が共同作業を始め、国際会計基準(IFRS)をつくる国際会計基準審議会(IASB)の母体、IFRS財団が統一的なESG基準づくりをする新組織設立の提案を公表するなど、世界的な取り組みが始まりました。日本からも積極的に意見を発信し、それを踏まえた上で、有効で効率的な共同基準に集約されることを願っています。
人となり
勤務先の破綻と再建を乗り越えて
34年間の銀行員時代を振り返ると、前半は、支店の営業や海外への融資の審査、新たな市場取引への取り組みを通じてお客様から学び、外に向かって働きかけた時期だったと思います。一方で、後半は、銀行をどう立て直していくか、状況をどう外部に説明していくかに私自身の役割が移り、「内部固め」の部分の比重が高くなりました。銀行の再建の過程では、大蔵省や日本銀行からお見えになった方々が、経営の舵取りに私心なく力を尽くしてくださいました。間近でその真摯な姿勢に接し、公益のための仕事の大切さや生き様のようなものを学ばせていただいたと思っています。 大学を卒業して就職したときには、世界の金融市場のランキングでも上位で活躍している自分の勤務先が傾くとは思いもよりませんでした。経営状況が悪化し、力を注いでいた海外関連のビジネスを維持できない状況になってしまった時には、大変ショックを受けたことは事実です。 ただ、早期に問題を解決したいという思いの方が強かったように思います。若手時代には、留学を含めさまざまな金融機関の戦略的業務における経験を積ませてもらいましたから、今度は組織のために自分に何ができるかを考えることが、自らの使命だと考えていました。 再建に取り組む間には、当時の金融再生委員会の方と議論しながら銀行の売却先を選ぶ手続きがあったり、格付会社や投資家の理解を得るための説明を重ねたり、海外の投資家の出資を得て経営体制を再構築したり、多くの挑戦もありました。でも、ハードルがあると、機会として活かそうという気持ちやアイデアがどんどん湧いてきました。こんなことになって残念だ、という気持ちにとらわれて立ち止まることはありませんでした。そういう性分なんだと思います。
「ロッキー」の街は第二の故郷
趣味は旅行です。仕事でも海外へ出掛ける機会が多かったので、行く先々で異なる文化、習慣、考え方を理解する楽しみを味わっていました。友人が来日すると国内を案内することも多かったので、その経験を活かして、2021年はオリンピックのボランティアとして「おもてなし」役も務める予定です。 旅に出ると、街を散歩しながら地元の人々の生活に触れるのが楽しみです。特にアメリカのざわざわとした雰囲気が好きで、銀行員時代に二度駐在したニューヨークと留学で滞在していたフィラデルフィアは、第二の故郷のように感じています。 フィラデルフィアは、映画「ロッキー」の舞台になった街です。私が暮らしたのは映画公開から5年後のことで、街の中はあの映画の雰囲気のまま。危険な地域もあり、最初は物騒なところに来てしまったなと思いました。しかし、ビジネス・スクールで学ぶうちに、思いを共有できるたくさんの仲間と出会い、グループで討論やプレゼンテーションをしたり、共同でイベントの開催をしたり、互いに刺激し合う素晴らしい時間を過ごしました。その頃の仲間とは家族ぐるみの付き合いがあり、今でも連絡を取っています。「ロッキー」を観る度、当時を思い出します。
―読者へのメッセージ―
世界の経済や産業は、「VUCA(変動、不確実、複雑、曖昧)の時代」とも呼ばれる、激しい変革の時期を迎えています。産業構造の変化は、社会全体にも多大な影響を与えるものです。そこで生きる私たちには、長く広い視点を持つこと、バランス感覚を持つこと、さらに、自分が社会課題に参画していく意識を持つことが求められていると思います。私たちの世代の人は、次の世代に何を残していくか、次の世代に課せられた課題にどう協力していくか、未来に向けての「公益」を考えることも必要でしょう。逆に、若い世代のみなさんには、異なる世代の人の協力をどう得ていくかも考えてほしいと思います。 環境が大事だから環境のこと、AIがトレンドだからAIのこと、と偏るのではなく、物事を長期的、多角的にとらえ、バランスを取ることにより、不安定な時代を飛躍の機会に変えていくことができるのではないでしょうか。
取材日:2021年1月