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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第33回 芸術教育学 教育学部 幼児教育学科 生井 亮司 教授

アート的視点でこの世界を探究する力を

教育学部 幼児教育学科 教授

生井 亮司Namai Ryoji

武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科卒業。東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻博士後期課程修了。博士(美術)。2019年より現職。専門は芸術教育、教育哲学、美術論。彫刻制作。

人間の内的で情緒的なものと考えられてきたアート。そのアートを、世界の新たな面を探究し理解する方法としてとらえる考え方が美術教育の分野で広がっています。すでにある意味や概念にとらわれない物の見方、言葉では説明しがたい「なんかいい」という感覚を大切にする教員を育て、美術制作や表現と子どもの発達との関わりについて思考する生井亮司教授の研究を紹介します。

研究の背景

芸術には人を成長させる何かがある

大学を卒業して初めに就いた仕事は、美術予備校の講師でした。美大を目指して予備校に来る生徒には、「俺が俺が」タイプの子や、ちょっと斜に構えた感じの子が多かった気がします。そういう子も、予備校で1年間真剣に絵を描いるうちに、真っ直ぐに物を見られるようになります。背筋をピッと伸ばして物を見ないと、絵は描けないからです。そうすると、絵が上達するのはもちろん、人間的にもピシッと筋が通ってきます。その姿を目の当たりにして、美術制作や表現には人間を成長させる何かがあるんだろうと考えるようになりました。そうしたことを研究するために29歳で大学院に入り、それから今まで、彫刻制作と教育研究を自分の両輪として活動しています。

研究について

「なんかいい」を切り捨てずに世界を見る

-制作者の意識変容について哲学をヒントに考察-

美術制作や表現が、子どもの発達や人が生きることにどのように関わっているのか、ということが研究の大きなテーマです。研究方法はいくつかありますが、一つは、自らの彫刻制作で得た知見を基盤に、美術制作における制作者の意識の変容と身体性の問題について、哲学などの文献を参照点にしながら論理的な意味付けを試みています。

絵を描いたり文章を書いたりする時、人は「自分が作る」という意識で動き出します。私が彫刻制作をする時も、そうです。しかし、作品を作っていく過程で、だんだん行為の主体が自分ではなくなり、何かに「作らされている」という意識に変わることがあるのを感じます。また、人は普段、目の前にガラスのコップがあったら、コップという「意味」で区切って物を見ていますが、美術制作の過程では、そのコップをじーっと見ているうちにだんだん意味の区切りが崩れていって、コップではない何かもっと不思議なもの、何ものでもないものに見え始める、ということが起こります。いわば日常的な分節(区切り)の崩壊です。こうした制作者の意識の変容に注目し、哲学の中でも特に京都学派の木村素衛、さらに井筒俊彦の理論などを元に思考を深めています。

-意味にとらわれない子どもの世界-

日常の区切りが崩れて、区切りがない状態になり、区切りのない状態からまた新しい区切りが立ち上がっていく。いわば井筒の言う分節と無分節の同時現成。彫刻家である私は、制作の過程でそういう体験をしている(あるいはしたいと思っている)わけですが、それと非常によく似た物の見方をもっと当たり前にしている人たちがいます。小さな子どもたちです。 子どもは、意味によって区切られた世界を生きていません。だから、大人が「何でそんなものを?」と思うような石ころをすごく大事にしたりします。大人のように既存の意味や有用性による世界ではなく、それとは全く違う区切りの世界、未分化な世界で生きているからです。

-美術教育の新概念Arts-Based Research-

最近はArts-Based Research(ABR)に関する研究を日本や海外の研究者と協働して進め、昨年は日本のABR研究の最前線を取り上げた本『Arts-Based Methods in Education Research in Japan』(Brill、オランダ)の出版にも携わりました。 ABRは、1990年代にアメリカの教育学者エリオット・アイスナーなどによって提唱され、美術教育研究の分野で世界的に注目されている概念です。ABRとは、端的に言えば、アート的な見方によって世界を探究しようとすることをいい、先ほどお話しした意味によって区切られていない物の見方も、アート的な見方の一つと言うことができると思います。また、最近では美術教育にとどまらず、社会学などの領域でもABRの考え方が応用されています。

ABRでは、教育において、さびた椅子の脚の色を「なんかいいよね」と大切にするような物の見方やこの空間がなぜかいいと感じる感覚であったり、この人はいい、などといった直感を大切にすることが、全ての教師にとって重要だと考えます。そこで、幼稚園教諭や保育士を目指す学生に「なんかいい」を実感してもらうために、授業で私がやっていることがあります。まず、学生にコピー用紙を1枚ずつ配り、それをぐしゃぐしゃに丸めてもらいます。その丸めた紙を四方八方からよく見て、少しずつ広げていき、「あ、これいい!」と感じる瞬間で手を止めてもらう。そうすると、「いい!」というところを探っていくうちに、ただの丸めた紙が何だか面白いものに思えてきます。この感覚は子どもたちが日々生活の中で感じているものとよく似ています。数値で表したり言葉にしたりすることはできない、だけど「なんかいい」。その「なんかいい」をキャッチする力、切り捨てない力が、子どもの自由で多様な想像力を伸ばす教師には不可欠です。学生には、教育現場でその能力を持ち続けられる教師になってほしいと思っています。

今後の展望

アート的見方を広めて世界をより面白く

先ほど私は、さびの色を「なんかいい」と感じることを大人になると「忘れてしまう」と言いましたが、本当はそうではない気もしています。実はみなさん大人になっても、言語化しにくい「なんかいい」という感覚で世界を見ているのだと思うのです。身の回りの服や靴を買う時、サイズや値段はチェックするにしても、最終的に「なんとなくしっくりきた」ものを選んだりしませんか? その時の「なんかいい」は、言葉で説明する必要はなくても、確かにみなさんに働いている“知性”です。“芸術的知性”といってもいいかもしれません。その知性は、美術が得意な人に先天的に備わっている類いのものではなく、訓練や経験で増やしたり身に付けたりしていくものだと、私は考えています。美術や表現の教育で本当に大切なのは、絵の描き方や造形作品の作り方よりも、意味や価値にとらわれない自由な物の見方を教えること、そうした見方をする訓練の場を提供することなのかもしれません。

アートはこれまで、個人の内的な問題を表したもの、情緒的で感性的なものとして人々に受け止められてきました。「どのアーティストも何か大きな苦悩のようなものを抱えていて、それを作品として表出している」、そんな印象を持っている方もいるかもしれません。ただ、そうだとすると、人生にドラマや大事件がないとアーティストにはなれない、ということになりますよね。そんなことはないんです。すべての人がアート的な見方ができるし、そうすることで世界がもっと面白く見えてくるはずです。今後、ABRに関する研究をさらに深め、「アート的に世界を探究すること」が、人間の可能性を広げるものであるということを、より多くの人に認識されてほしいと思っています。さらに、その時に働いている“芸術的知性”とはいったいどのようなものなのか、研究を通じて少しでも明らかにしていきたいです。

教育

授業では自由に表現し、自分に正直に

▲先生の著書と作品集

幼児教育学科では、保育内容(表現)や造形の授業を担当しています。そこでは、表現は本当に自由であるということを学生に伝えたいと思っています。授業中に「やってはいけないこと」を聞きにくる学生がいますが、表現することは徹底的に自由にやっていいし、誰かにブレーキをかけられるものではありません。自分の感情や感覚に素直に、正直であってほしいと願っています。キャンバスの中では徹底的に正直に自由でいいんです。

▲博士課程時代の大学のアトリエ。作品提出前の徹夜での制作風景。

当学科の学生の多くは子どもと関わる仕事に就きますが、先生や親になると、つい子どもに「早く大人になること」を求めてしまいます。早く字が書けることをとても良いことだと思い、周りの子より食べるのが遅いと「困った子」と感じてしまう。かく言う私も、自分の子どもに対してはそういうところがありました。ただ、子どもでいる時間はいずれ必ず終わるわけですから、本当は「子ども」を十分やらせてあげること、子どもでいることを守ってあげることが大人の役目です。十分に子どもをやらないと十分な大人にならないんです。そして子どもの時、その瞬間にしか味わうことができないことがあるということを知っていて欲しいと思います。もちろん、社会で生きていくためには、時間通りに行動することも勉強ができることも大事ですが、それだけが正しいわけではないと思うのです。自由に表現し、自分の感覚に正直であること。「なんかいい」という感覚と面白さを体感すること。それを学生時代に経験して、「子どもが子どもでいること」を守ってあげられる先生になってほしいと思います。

人となり

幼稚園の庭で“動き出した”ツゲの木

小さい頃から絵を描くことは好きだし、上手な方でしたけど、そう言うとステレオタイプな感じがするのであまり言わないようにしています(笑)。本当に好きだったのは、ぼーっとすることや全てを疑ってみること。ぼーっと雲を見たりするのが好きでした。今でもよく覚えている光景があります。幼稚園の中庭にツゲの木があって、その木をぼーっと眺めているのが本当に好きだった。ぼーっと見ていると、そのうちに、ツゲの木が“動き出す”んですよ。動くんです。木だと思って見ていたはずなのに、何か別の変なものに見えてくる。その感覚がすごく面白くて、いつも眺めていました。物を見ることをすごく楽しんでいたというのでしょうか。その経験がどこか今の研究にもつながっている気がします。 そんな感覚はずっとあって、学校に入ってからは筆記テストで「答えはこれです」と決められるのが苦手でした。ツゲの木がツゲの木に見えなくなるんだから、その答えだって「本当に?」と思っちゃう。そういうことを言ったり書いたりすると、授業中は先生も「面白いね」って言ってくれるのに、テストだと×なんですよね(笑)。

時間を忘れる地図の旅

ずっと哲学書を読んだり作品を制作したりするのが趣味だったのですが、今はそれが仕事になってしまいました。今ハマっていることの一つは、地図を見ることです。グーグルマップを見ない日はないくらいで、ニュースなどで海外の知らない街の名前が出てくると、必ず検索します。最初は日本からの位置を見て、どんどんズームして、最後にストリートビューを見て「おお!こういう街ね!」と分かるのがすごく楽しい。やっていると時を忘れます。 新型コロナでゼミ旅行ができなかったときは、その代わりにグーグルマップを使って学生に「妄想ゼミ旅行」を企画してもらったのですが、それもすごく楽しかった。バーチャルですから世界中どこでも行き放題。それぞれが行きたい美術館を起点に、行き帰りのフライトから、ホテル、どこのカフェでお茶を飲んでどこでどんなお土産を買うかまで、プランを立ててプレゼンしてもらいました。「この季節、この時間にこの場所に行くと夕日がきれいです」みたいなことまで細かく調べてくれて、本当に行った気分になって楽しかったですね。

―読者へのメッセージ―

「常に無欲、以て其の妙を観、常に有欲、以てその徼を観。」と老子は言いましたが、分節可能な数値や理論で説明できるものに囲まれて暮らしているようで、本当は私たちの世界は、目に見えないもの、論理では説明や判断ができないようなもの、いわば無自性と言ってもよいような世界に支えられているのではないかと思います。「なんかいい」「よくわからないけど大事」という感覚、信頼や願い、そして祈り。そういった目に見えないものを「あやしい」と言う人もいますが、人間の知性とは、本来もっと豊かなものだと思うのです。有用性や意味にとらわれない見方で世界を深く見つめること、目に見えないものが社会を根底で支えていることを忘れないでほしいと思っています。

取材日:2023年3月