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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第31回 医薬品評価科学 薬学部 薬学科・薬学研究所 永井尚美教授

より適正な医薬品の使用を実現するレギュラトリーサイエンス

薬学部 薬学科 教授

永井 尚美Nagai Naomi

京都大学薬学部卒業。京都大学大学院薬学研究科修士課程修了。国立医薬品食品衛生研究所、独立行政法人医薬品医療機器総合機構を経て、2017年より現職。専門は医薬品評価科学、生物薬剤学、薬物動態学、臨床薬理学。博士(薬学)。

医薬品は、通常、製薬会社で研究開発され承認申請された後、品質、有効性及び安全性が審査され、国の承認を受けて世に送り出されます。医薬品開発、承認審査やそのための規制づくりに貢献しているのが、科学的根拠に基づいて有効性や安全性を予測・評価・判断するレギュラトリーサイエンスです。長年、医薬品医療機器総合機構で医薬品の承認審査や規制ガイドライン作成に携わり、レギュラトリーサイエンス研究を通して医療に貢献することを目指す永井先生の研究をご紹介します。

研究の背景

行政における施策、規制や措置を支える科学

私の研究分野であるレギュラトリーサイエンスの「レギュラトリー(regulatory)」とは、regula(規制、ものさし)から派生した言葉で、「原理や規則に基づいて管理、規制、調整する」といった意味を持っています。新しい物質が生み出された時、その成果を人や社会のために活用するには、その物質が持つ未知のリスクを最小化し、私たちが受ける恩恵を最大化していくことが求められます。たとえば、よく効く薬物でも、その効果に見合わないほど深刻な有害作用があれば、その薬物は私たちにとって価値あるものとはいえないでしょう。つまり、新しい物質を医薬品として社会で活用していくためには、安全性(リスク)と有効性(ベネフィット)の予測や評価を行い、予測されるリスクに対しては一定の規制を設けるといった判断と意思決定を行う必要があるのです。レギュラトリーサイエンスは、物質や現象の実態、有効性、安全性を的確に評価し、行政による規制や措置に対して科学的根拠を与えるための科学であり、医薬品分野のみならず食品安全など、みなさんの生命や健康に関わる分野で活用が進んでいます。

研究について

医療現場に不足する情報を補うために

-臨床試験の対象とはならない患者層をカバー-

現在は、医薬品の品質、有効性、安全性を科学的知見に基づいて正確に予測・評価・判断し、医薬品開発や医薬品の承認審査、販売後の適正使用につなげることを大きなテーマとして研究を進めています。特に注目しているのは、小児や高齢者に対する適正な用法・用量について、医療現場の情報不足を補うための研究です。 新医薬品(新薬)の承認審査において、開発段階で行われる臨床試験(治験)のデータはとても重要です。その結果に基づいて、有効性(ベネフィット)と副作用などのリスクのバランスを判断し、承認の可否と医薬品としての用法・用量等が決められていくのですが、幼い子どもや90歳を超えるような高齢の患者さんを治験の対象にすることはまずありません。とはいえ、承認されればその医薬品が乳幼児や高齢者に使われることは当然あり得ます。情報が不足している患者層をターゲットに有効性や安全性を評価し、より適正な用法・用量に役立つ情報を医療現場に提供することを目指して、研究を進めています。

-小児への投与方法を数理モデルを使って設計-

具体的に取り組んでいる研究は、大きく分けて2つあります。一つ目は、ファーマコメトリクスを活用した研究です。

ファーマコメトリクスとは、数理モデルを使って薬剤の効果と副作用を定量的に解析・予測する手法で、最新のコンピューターやAI技術等を活用して医薬品の開発や承認審査にも応用されています。この研究では、国立成育医療研究センターの先生方と協力し、通常は臨床試験の対象にならない2歳以下の子どもの実臨床データを用いて、抗菌薬バンコマイシンを中心に腎排泄型医薬品のより適正な投与方法を検討しています。バンコマイシンのように体内からの消失の大部分が腎臓から排出される医薬品を子どもに投与する場合、腎機能の発達に応じた投与量の調節が重要です。承認用法・用量では、基本的に体重や年齢に応じた調節が行われていますが、子どもの腎機能などのデータに基づくモデリングとシミュレーションを通じて、通常は治験の対象とならない小児患者に対して、一人ひとりに合った用量を調節できる手法を開発しています。

-リアルワールドデータを活用した適正使用への貢献-

医療系データベースを用いた研究にも取り組んでいます。近年、電子カルテの普及などに伴い、医療現場で蓄積された診療情報のデータベース化が進んでいます。このような日常診療に関するデータベースと国が公表している副作用報告などのリアルワールドデータを活用して、患者さんの特徴に配慮した安全な薬物療法に役立つ情報を導き出すことを目指しています。 研究では、三重大学医学部附属病院の先生方と共同で、非弁膜症性心房細動の治療に使われる直接作用型経口抗凝固薬(DOAC)について、出血や血栓ができるリスク因子と用量の関係を検討しています。DOACは、これまで同じ病気に使われてきた医薬品と比べて使いやすく、高齢者にもよく使われる薬剤群なのですが、開発時の主たる臨床試験は世界的規模で行っているため、日本人の使用についての情報が必ずしも十分とはいえず、医療現場での情報の収集と評価の必要性が指摘されています。抗凝固薬は投与量が多すぎても少なすぎても命に関わるため、医療現場での情報を活用し、患者背景を踏まえた用量調節や安全確保に役立つ研究成果を発表していきたいと思います。

今後の展望

最適な用法・用量に貢献するエビデンスを発信

私の薬学研究者としてのバックグラウンドは、「薬物動態学」(Pharmacokinetics)にあります。投与された薬物が生体内でどのように吸収、分布、代謝、排泄されるかを解明する薬物動態学は、適正な用法・用量を決める上で大きな役割を果たすことができる学問です。そのため、前職の医薬品医療機器総合機構で承認審査を担当していた当時から現在まで、一貫して「どうすれば患者さん一人ひとりに対してベストな用法・用量を設定できるのか」という課題に対する強い思い入れを持って仕事をしてきました。現在取り組んでいる2つの研究をベースとして、日本の医療現場での最適な用法・用量に貢献するエビデンスをつくり出すこと、医薬品の規制要件やガイドラインの基盤となる成果をこの武蔵野大学から発信することを自分の命題として、研究に力を注いでいきたいと考えています。

教育

医薬品の模擬審査で考える力を育てる

学部では、レギュラトリーサイエンス概論、医薬品情報学、医薬品開発学、薬事行政(制度)・関係法規などの授業を担当しています。薬剤師を目指す学生たちを教える上で私が常に意識しているのは「自分で考える薬剤師」になってもらいたいということです。世の中は、○×では解決できない問題、答えが一つではない問題であふれています。それらの問題に対して自分で考え、判断し、意思決定を行う力を大学で身に付けてほしい。その力を養うために、薬学生にとって良い教材になるのが、医薬品の開発・承認審査のケーススタディです。

医薬品開発学の授業では、公表されている実際の承認審査資料を使い、学生のチームが模擬審査を行うグループワークに取り組んでいます。新薬開発は、長ければ十数年の時間をかけて行われ、その過程は答えが一つではない複雑な問いの連続です。また、医薬品の承認審査でも、一つひとつの医薬品について個別にリスクとベネフィットを評価し、承認の可否を判断していく作業が必要です。学生たちには、資料を読み込み、疑問点を洗い出し、課題医薬品の承認の可否を自分たちで議論・決定するプロセスを通して、自ら考える力を養うことを期待しています。グループワークの締めくくりに、各チームが検討結果をプレゼンテーションするのですが、同じ医薬品を扱っていても、同じ内容の発表は一つとしてありません。同じ資料から何を読み取り、どう考え、どんな道筋で結論に至るかはそれぞれ全く異っていて、聞いていてとても面白いですね。また、公表されている審査報告書で記載されている承認審査での主要な論点と、発表の中で学生が挙げていた指摘が同じということもあり、感心したり、新たな気付きを得たりしています。医薬品審査の現場にいた私の経験も伝えながら、自ら考え、承認審査の資料を読んで活用できる薬剤師を育てていきたいと思います。また、医薬品開発や規制当局における品質・有効性・安全性の確保等の業務には薬学部で学んだ知識・経験が必要不可欠です。学生には、病院や薬局薬剤師としてだけでなく、多方面での活躍の場があることを知ってほしいです。

人となり

―何事も「ヘルシェイ オラビリル」―

現在の私の生き方や考え方に大きな影響を与えているのは、40代で経験したトルコ共和国・イズミル市での約2年間の生活です。家族の仕事の関係で思いがけずトルコに渡ることになったのですが、トルコ語は全く分からず、最初のうちは、買い物も身振り手振りと電卓で数字を示してという状態で、苦労しましたね(笑)。一方で、何をするのも自由な環境でしたから、現地のエーゲ大学で研究に携わったり、病院の薬剤部や街中の調剤薬局を見学したり、手探りで様々なことに挑戦しました。経験のないこと、想定外のことが起きるたびに、私の頭に浮かんでいた言葉が、「ヘルシェイ オラビリル(Her şey olabilir)」。
「なんでもありえる・起こりえる」という意味のトルコ語です。何事も何とかなる、何でもあり、と受け止めて道を開いていく力を、トルコでの生活が教えてくれたような気がします。本当に宝物のような2年間でした。
2023年トルコ・シリア地震のニュースには心を痛めています。イズミル滞在時に東日本大震災が起こり、見ず知らずの沢山の方々にGeçmiş olsun(お見舞いの言葉)をかけてもらいました。日本に居て出来ることは限られますが、可能な限りの支援と心からのGeçmiş olsunを伝えたいです。

▲イズミル市から車で約1時間のエーゲ海沿岸地域
▲エーゲ大学ボルノバキャンパス薬学部にて

―学生の留学や海外交流をサポート―

そんなトルコでの生活では、日本にいた時には見えなかったたくさんの気付きがありました。医薬品の表示は、基本的に欧米で承認された事項がトルコ語で記載されています。現地の語学学校で知り合ったトルコ人男性と結婚した方から「妊娠や出産への影響が心配なので、医薬品の注意事項は日本語で読みたい」という相談を受けた時には、世界に向けて、英語に加えて母国語でも医薬品規制に関わる事項を発信する意義やそれらの受け手が居るということを実感しました。また、エーゲ大学の教員やイズミル市の病院及び薬局薬剤師の方々との出会いは帰国後の仕事にも大きな影響を与え、国際関係業務への参加の背中を押してくれました。米国やEUのレギュレーターや関連領域のアカデミアの先生方との意見交換を通じて、多様なバックグラウンドに触れることが出来ました。学生たちにもぜひ一度は世界へ飛び出し、日本に居ては得られない経験をしてほしいと思い、現在、薬学部の国際交流委員会の委員長として、協定大学への留学や海外との交流プログラムを担当しています。薬学部の学生は、国家試験合格を目指して多忙な6年間を武蔵野キャンパスで過ごしていますが、一人でも多くの学生に日本以外の医療や薬学に関わる環境にも興味を持ち、経験する機会を提供できるよう、プログラムを充実させていきたいと考えています。

―読者へのメッセージ―

「医薬品」と聞くと、多くの方は錠剤や注射といった形のある“モノ”を想像されると思います。しかし、実はモノだけでは医薬品とは呼べません。モノと、規制に裏打ちされた“情報”がそろってはじめて「医薬品」なのです。医薬品を服用する時には、付随する情報にも目を向け、興味を持っていただけるとうれしいですね。そして分からないことがあったら、どうぞ気軽に薬剤師に質問してください。身近な存在として薬剤師をもっと活用していただきたいと思います。

取材日:2022年12月