学問の地平から
教員が語る、研究の最前線
第31回 医薬品評価科学
本学の教員は、教育者であると同時に、第一線で活躍する研究者でもあります。本企画では、多彩な教員陣へのインタビューをもとに、最新の研究と各分野の魅力を紹介していきます。
第31回 医薬品評価科学薬学部薬学科・薬学研究所 永井尚美教授
より適正な医薬品の使用を実現するレギュラトリーサイエンス
最適な用法・用量に貢献するエビデンスを発信
私の薬学研究者としてのバックグラウンドは、「薬物動態学」(Pharmacokinetics)にあります。投与された薬物が生体内でどのように吸収、分布、代謝、排泄されるかを解明する薬物動態学は、適正な用法・用量を決める上で大きな役割を果たすことができる学問です。そのため、前職の医薬品医療機器総合機構で承認審査を担当していた当時から現在まで、一貫して「どうすれば患者さん一人ひとりに対してベストな用法・用量を設定できるのか」という課題に対する強い思い入れを持って仕事をしてきました。現在取り組んでいる2つの研究をベースとして、日本の医療現場での最適な用法・用量に貢献するエビデンスをつくり出すこと、医薬品の規制要件やガイドラインの基盤となる成果をこの武蔵野大学から発信することを自分の命題として、研究に力を注いでいきたいと考えています。
医薬品の模擬審査で考える力を育てる
学部では、レギュラトリーサイエンス概論、医薬品情報学、医薬品開発学、薬事行政(制度)・関係法規などの授業を担当しています。薬剤師を目指す学生たちを教える上で私が常に意識しているのは「自分で考える薬剤師」になってもらいたいということです。世の中は、○×では解決できない問題、答えが一つではない問題であふれています。それらの問題に対して自分で考え、判断し、意思決定を行う力を大学で身に付けてほしい。その力を養うために、薬学生にとって良い教材になるのが、医薬品の開発・承認審査のケーススタディです。
医薬品開発学の授業では、公表されている実際の承認審査資料を使い、学生のチームが模擬審査を行うグループワークに取り組んでいます。新薬開発は、長ければ十数年の時間をかけて行われ、その過程は答えが一つではない複雑な問いの連続です。また、医薬品の承認審査でも、一つひとつの医薬品について個別にリスクとベネフィットを評価し、承認の可否を判断していく作業が必要です。学生たちには、資料を読み込み、疑問点を洗い出し、課題医薬品の承認の可否を自分たちで議論・決定するプロセスを通して、自ら考える力を養うことを期待しています。グループワークの締めくくりに、各チームが検討結果をプレゼンテーションするのですが、同じ医薬品を扱っていても、同じ内容の発表は一つとしてありません。同じ資料から何を読み取り、どう考え、どんな道筋で結論に至るかはそれぞれ全く異っていて、聞いていてとても面白いですね。また、公表されている審査報告書で記載されている承認審査での主要な論点と、発表の中で学生が挙げていた指摘が同じということもあり、感心したり、新たな気付きを得たりしています。医薬品審査の現場にいた私の経験も伝えながら、自ら考え、承認審査の資料を読んで活用できる薬剤師を育てていきたいと思います。また、医薬品開発や規制当局における品質・有効性・安全性の確保等の業務には薬学部で学んだ知識・経験が必要不可欠です。学生には、病院や薬局薬剤師としてだけでなく、多方面での活躍の場があることを知ってほしいです。
―何事も「ヘルシェイ オラビリル」―
現在の私の生き方や考え方に大きな影響を与えているのは、40代で経験したトルコ共和国・イズミル市での約2年間の生活です。家族の仕事の関係で思いがけずトルコに渡ることになったのですが、トルコ語は全く分からず、最初のうちは、買い物も身振り手振りと電卓で数字を示してという状態で、苦労しましたね(笑)。一方で、何をするのも自由な環境でしたから、現地のエーゲ大学で研究に携わったり、病院の薬剤部や街中の調剤薬局を見学したり、手探りで様々なことに挑戦しました。経験のないこと、想定外のことが起きるたびに、私の頭に浮かんでいた言葉が、「ヘルシェイ オラビリル(Her şey olabilir)」。
「なんでもありえる・起こりえる」という意味のトルコ語です。何事も何とかなる、何でもあり、と受け止めて道を開いていく力を、トルコでの生活が教えてくれたような気がします。本当に宝物のような2年間でした。
「なんでもありえる・起こりえる」という意味のトルコ語です。何事も何とかなる、何でもあり、と受け止めて道を開いていく力を、トルコでの生活が教えてくれたような気がします。本当に宝物のような2年間でした。
2023年トルコ・シリア地震のニュースには心を痛めています。イズミル滞在時に東日本大震災が起こり、見ず知らずの沢山の方々にGeçmiş olsun(お見舞いの言葉)をかけてもらいました。日本に居て出来ることは限られますが、可能な限りの支援と心からのGeçmiş olsunを伝えたいです。
▲イズミル市から車で約1時間のエーゲ海沿岸地域
▲エーゲ大学ボルノバキャンパス薬学部にて
―学生の留学や海外交流をサポート―
そんなトルコでの生活では、日本にいた時には見えなかったたくさんの気付きがありました。医薬品の表示は、基本的に欧米で承認された事項がトルコ語で記載されています。現地の語学学校で知り合ったトルコ人男性と結婚した方から「妊娠や出産への影響が心配なので、医薬品の注意事項は日本語で読みたい」という相談を受けた時には、世界に向けて、英語に加えて母国語でも医薬品規制に関わる事項を発信する意義やそれらの受け手が居るということを実感しました。また、エーゲ大学の教員やイズミル市の病院及び薬局薬剤師の方々との出会いは帰国後の仕事にも大きな影響を与え、国際関係業務への参加の背中を押してくれました。米国やEUのレギュレーターや関連領域のアカデミアの先生方との意見交換を通じて、多様なバックグラウンドに触れることが出来ました。学生たちにもぜひ一度は世界へ飛び出し、日本に居ては得られない経験をしてほしいと思い、現在、薬学部の国際交流委員会の委員長として、協定大学への留学や海外との交流プログラムを担当しています。薬学部の学生は、国家試験合格を目指して多忙な6年間を武蔵野キャンパスで過ごしていますが、一人でも多くの学生に日本以外の医療や薬学に関わる環境にも興味を持ち、経験する機会を提供できるよう、プログラムを充実させていきたいと考えています。
―読者へのメッセージ―
「医薬品」と聞くと、多くの方は錠剤や注射といった形のある“モノ”を想像されると思います。しかし、実はモノだけでは医薬品とは呼べません。モノと、規制に裏打ちされた“情報”がそろってはじめて「医薬品」なのです。医薬品を服用する時には、付随する情報にも目を向け、興味を持っていただけるとうれしいですね。そして分からないことがあったら、どうぞ気軽に薬剤師に質問してください。身近な存在として薬剤師をもっと活用していただきたいと思います。
取材日:2022年12月