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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第37回 キャリアデザイン学アントレプレナーシップ学部 アントレプレナーシップ学科 金杉 朋子 教授

「ことを成す人」の土台をつくるアイデンティティ形成

アントレプレナーシップ学部 アントレプレナーシップ学科 金杉 朋子 教授

金杉 朋子Kanasugi Tomoko

慶應義塾大学文学部文学科仏文学専攻卒業。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。東京経済大学コミュニケーション学部専任講師、嘉悦大学ビジネス創造学部講師を経て、2021年より現職。慶應義塾湘南藤沢高等部教員、慶應義塾大学総合政策学部講師、慶應義塾大学SFC研究所上席所員。高校の公民科(倫理)教員としてアイデンティティ形成プログラムを開発し、読売教育賞を受賞。

SNSで“リア充”な友達を見て、自分と比べて落ち込んでしまう―。そうした若者の心の裏側には、自分に自信が持てなくなる青年期の発達の特徴が隠れています。青年期の心理的な不安定さを乗り越えるアイデンティティ形成のため、自ら開発した教育プログラムを授業で実践し、学生が「ことを成す」ための第一歩をサポートしている金杉朋子教授の研究を紹介します。

研究の背景

「自分って何だろう?」と思い悩む青年期

アイデンティティは、精神分析学者のエリクソンが、青年期の発達の課題として提唱した概念です。エリクソンは、人の生涯にわたる発達をライフサイクルと呼び、乳児期から老年期まで8つの段階に分類しました。その中でも、大人と子どもの間に当たる青年期(13~22歳ごろ)は、「他者を強く意識する」「自分を卑下する」「理想が高い」といった特徴があり、心理的に不安定な状態が続きます。自らを正しく認識することが難しくなり、「本当の自分って何だろう?」と思い悩み、落ち込んだり苦しんだりしてしまうのです。これが青年期に特徴的とされる「アイデンティティの危機」です。

この“危機”を乗り越えるために必要なのは、“2つの自信”です。1つ目は「こういう自分でいいんだ」と一貫した自分を持つ自信、もう一つは、その一貫した自分が社会に認められているという自信です。この2つの自信を持てるようになる「アイデンティティの確立」が、青年期にはとても重要だといわれています。
そうした青年期の真っ只中にいるのが、大学生です。しかも、社会人としてのスタートを間近に控え、どんな職業に就くのか、将来どう生きていきたいのか、切実に考えざるを得ない状況に置かれています。私は、長年高校の倫理教員として生徒のアイデンティティ形成を支援してきた経験を生かし、学生がかけがえのない自分を認識し、その自分がどう社会とつながり、社会に貢献していくのかを考えるサポートをしています。

研究について

自分の内から生まれるアイデンティティを探して

-ワークを通して「かけがえのない自分」を知る-

担当している「キャリアデザイン」の授業では、私が開発したアイデンティティ形成のための教育プログラムを使い、学生がさまざまなワークに取り組んでいきます。その要となるワークが、ライフストーリーシートの作成です。
ライフストーリーシートは、自分の人生で夢中になったこと、ワクワクしたこと、つらかったこと、それをどう乗り越えたかなどを可視化するためのものです。授業では、学生一人ひとりが、幼い頃から今に至るまでの自分を振り返り、幸福度が高かった出来事、低かった出来事をできるだけ細かく記入していきます。さらに、完成したシートを通して、それぞれが「人生で一貫して自分をハッピーにする要素」を見つけ、その要素をキーワードとして、自己の内側から生まれる主体的アイデンティティを探していきます。さらに、自らを知るだけでなく、ほかの人も自分と同じように主体的アイデンティティを持った存在だと理解し、お互いの「かけがえのなさ」を感じ合うことを目指します。
授業は、ワークに多くの時間を費やしますが、ワークの背景にある哲学や心理学の理論についても、文献を紹介しながら解説し、学問的背景を踏まえた理解につなげています。また、「過去を振り返って自分を知る」という行為は、つらい過去の記憶を思い起こし、心に痛みを生じさせる危険もはらんでいます。その痛みをどう昇華していくかを含めたフローが教員の責務と考え、授業を受けている1年生全員と1対1の面談も行っています。

-アイデンティティ形成がEMCの学生に不可欠な理由とは?-

「キャリアデザイン」は、アントレプレナーシップ学部(EMC)1年次の必修授業です。アイデンティティの確立は、もちろんすべての青年期のみなさんにとって大切なのですが、EMCの学生にはとりわけ重要なことだろうと考えています。

EMCには、起業家精神を養い、社会で自ら「ことを成そう」と志す学生が集まっています。学部には、魅力的な先生や刺激し合える友人がいて、最新のトレンドや情報に触れることもできます。ところが、そこで自分をしっかり理解できていないと、先生や友人やトレンドに揺さぶられて、自分が成し遂げたいことがブレてしまいかねません。
社会でことを成すのは、簡単なことではありません。大きなことを成し遂げるためには、自分の内側から生まれる課題意識や思いが必要です。そして、自分がどんな人間で、何が好きで、何が強みなのかを理解し、その主体的アイデンティティと社会課題を結びつけた「成し遂げたいこと」こそ、困難があっても目指し続けることができる目標になるのだと思います。アントレプレナーシップの下地を作るという意味でも、入学直後の1年次に自分のアイデンティティを確立することはとても重要であり、授業を通してその支援ができることに、大きな意義とやりがいを感じています。

今後の展望

自分の生き方を探す学生を支え続けたい

日本人の生涯労働時間は、10万時間以上と言われています。就職活動では、多くの大学生が「入社すること」をゴールにしてしまうのですが、本当に重要なのは、「仕事に就いた後の10万時間で何を成していくのか」でしょう。また、人生100年時代とも言われる長寿社会を迎え、自分はどう生きたいのかを考えるライフデザインは、これまで以上に重要度を増しています。授業や面談などでの関わりを通して、学生がトライ&エラーを繰り返しながら「かけがえのない自分」を見つけ、大学を巣立った後は社会とどうつながり、貢献していきたいのか考えるサポートを続けたいと考えています。

また、アイデンティティ形成支援の実践をさらに広げるため、今年6月には千葉県の成田高校・付属中学校で、1,500人の生徒に向けた講座を行いました。これを機に、現在教えている大学や高校だけでなく、全国の中学高校での授業にも積極的に取り組んでいきたいです。

教育

ソクラテスの問答法で考え抜く力を育てる

授業では多くの時間をワークや振り返りに使っていますが、その過程では、考え抜く力を養うことを大切にしています。

科学技術が進歩し、AIが身近なものになりつつある今、単に指示通りに動くだけの存在では、いずれ機械に置き換えられてしまうでしょう。これからの社会では、今まで以上に深く考える力が求められるはずです。その力を鍛えるため、グループワークでは、「なぜそう考えるのか」「それは本当に正しいのか」と問いを繰り返す、ソクラテス式の問答法を実践しています。問答法は、議論をしたり、相手を説得したりするものではなく、問いと答えを通して新しい気付きを得ることを目的としています。質問された側が答えを考えるのはもちろん、質問する側も、どんな問いが相手に気付きを与えるのかを考えなければなりません。何度も問答を繰り返すことで、お互いに考え抜く力を高めることができると考え、授業に取り入れています。

また、発達心理学に基づいた青年期の特徴や理論は、しっかり時間を掛けて教えるよう努めています。よく「私はネガティブな人間」「悩みがちな性格」と話してくれる学生がいるのですが、ほとんどの場合、それは気質や性格というより、青年期の心理的な不安定さに起因するものです。一時的にネガティブになったり、悩みがちになったりすることは、いわば「心の成長痛」。歯の生え替わりや成長痛のような肉体的発達と同じように、誰にでも起こり得ることです。授業でそれを説明すると、「仕方がないことなんだな」と安心する学生も多く、そうした背景を理解した上で、アイデンティティを確立することの大切さや、そのために何をしていくのかを伝えるようにしています。

人となり

アイデンティティ危機を越えて見つけた天職

実は、私自身、大学時代にかなり大きなアイデンティティ危機に直面しました。自分を見つけようといろいろなことに挑戦してみて、どれも続かず、余計に落ち込んだり。答えを探してたくさんの哲学書を読んだのも、その時期です。まさに自分がアイデンティティ危機のときに、インドでのボランティアにいきました。ドイツのボランティアの方たちと一緒に働く中で彼女たちの凄さを味わい、高校時代の夢であるボランティアしながら世界中の人たちと笑うということは、違うのではないかと感じて帰ってきました。

そして2年間図書館の本を片っ端から全て読んだときに、ここに答えはないとわかり、自分の過去から見つめる以外自分を知る事ができないとやっと気づきました。今、学生にやっているライフストーリーシート『長所を書き合うシート』は、そのときに自分で作ったものです。徹底的に掘り下げることで、ようやく自分の内側から「一貫した自分」が見えてきました。それが「人間がすごく好きで、特に1対1で人と向き合うことに幸せを感じる」ということ。そのアイデンティティを生かせる職業って何だろう?と考えて、思い浮かんだのが「哲学や倫理を教える社会科の先生」でした。学校で学年を束ねてはイベントをやり、さんざん先生に迷惑をかけてきた私ですが、それを見つけたときに、霧が晴れたように胸がスーとしたのを今でも覚えています。自分の過去を振り返って、人が好きで人に夢中になる自分に気づき、教員を目指すことを決めました。その時、私は仏文学専攻の2年生。それまで教員になろうなんて全く思っていなかったので、教職課程の授業は一つも履修していませんでした。さらに、仏文学専攻の授業で多少はカバーできる英語やフランス語の教員免許とは違い、専門外の社会科を目指すことにしたので、必要な授業を一から履修することになります。最初に教職課程の先生に相談した時は、前例のないことだし、4年で卒業するのは無理だと言われました。当然ですよね、普通は4年間でやることを、2年間でやろうとしていたわけですから。

▲カンボジアの孤児院でのボランティア活動

でも、本当に無理なのか、試しに時間割を作ってみたら、毎日1限から6限までぎっしり授業を受けて、一つも単位を落とさなければ、2年間で必要な要件を満たせることが分かりました。その表を見せながら先生に交渉して、やっとOKが出て、かなりギリギリでしたけど、計画通り一つも単位を落とさずに社会科の免許を取ることができました。そこまで頑張れたのは、アイデンティティ危機を乗り越え、自分の内側から「これだ!」と思えるものを見つけ、それと仕事を結びつけて目標にできたからこそ、ですね。

赤ワインと料理でリラックス

教員になって26年が経ちましたが、毎秒幸せを感じていますし、一度も辞めたいと思ったことはないんです。空いた時間や授業が終わった後の夕方も、学生と個別面談をしたり、授業をどうしていくかを考えたりすることに時間を使っていて、仕事が趣味みたいなものですね。息子が2人いるのですが、先日、彼らに私の長所だと思うところを聞いてみたら、「愚直」と「働き者」という答えが返ってきました(笑)
リラックスできるのは、食事の時間に赤ワインを飲んでいる時。お酒はワインもビールも飲みます。お酒に合わせて料理を作るのも好きで、季節ごとに旬の魚を使った料理を作ったりしています。それから、本を読むことは長年の趣味です。書店で目に付いた本を一気に買って、時間がある時に読みふけるのが好きなのですが、それも結局、自分の知識欲を満たすこと以上に、授業にどう結びつけるかを考えることにワクワクしちゃうんですよね。

―読者へのメッセージ―

「自分とは何か」を考えるのは、なにも青年期だけに必要なことではなく、どの世代の方にとっても大切なことだと思います。人生100年と考えれば、40代でもまだ人生の折り返し地点。何か少しでも「これでいいのかな」と違和感を覚えたら、ライフデザインを考えるチャンスです。私自身、42歳の時に大病を患い、あらためて先の人生をどう生きるかを真剣に考え、ずっとチャレンジしたかった大学教員になりました。中高年になると、家族が増えたり、管理職になったり、背負うものが増えて思うようにならないことも多いのですが、人生は一度きり。年代を問わず、ぜひたくさんの方に「自分とは何か」をあらためて見つめ、ライフデザインを考えていただきたいと思います。そして、かけがえのない自分の人生を、生き生きと過ごしていただきたいですね。

取材日:2023年7月