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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第38回 日本語教育学・言語教育政策グローバル学部 日本語コミュニケーション学科 神吉 宇一 教授

「道具」の先にあることばの本来の役割。めざすべき日本語教育の在り方とは

グローバル学部 日本語コミュニケーション学科 教授

神吉 宇一Kamiyoshi Uichi

東京学芸大学教育学部卒業。大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程単位取得満期退学。北九州市立小学校教諭、海外産業人材育成協会(AOTS)日本語教育センター上席日本語専門職兼チーフコンサルタント、長崎外国語大学外国語学部特任講師等を経て、2016年4月より武蔵野大学准教授。2023年4月より現職。専門は言語教育政策、地域日本語教育等。

日本で暮らす外国人は近年増加傾向にあり、2022年度末には、在留外国人が初めて300万人を超えました。それに伴い、学校や地域など、さまざまな場所で非母語話者(外国人)への日本語教育が行われ、そのニーズはさらに高まることが予想されます。これまでの日本語教育は、主に言語スキルを身に付けることに重きが置かれてきました。しかし、教科書通りにことばを使えるようになることが、言語教育の本当のゴールなのでしょうか?従来の道具主義的な言語教育観に疑問を投げかけ、母語が異なる人同士が共生する社会をつくる日本語教育の在り方を追究する、神吉宇一教授の研究を紹介します。

研究の背景

AIが進歩すれば言語教育はいらない?

AIによる自動翻訳の精度は、近年飛躍的に向上しました。私もその恩恵にあずかり、英語の論文を書いたり読んだりする時は機械翻訳を利用しています。その方が時間がかからないし、実際論文の出来もいいのです。これからテクノロジーがさらに進歩して、機械翻訳の精度はさらに上がっていくはずです。
ところで、現在、日本で暮らす外国人への日本語教育、特に成人に対する日本語教育は、多くの場合、言語の知識とスキルを教えることを中心として行われています。もし、本当に言語教育がそうした「語学のトレーニング」でしかないのなら、近い将来、わざわざ外国語を学ばなくても機械翻訳があれば十分、という日が来るでしょう。しかし、教育とは本来「人が育つ」ことを目指すものであり、言語教育には機械翻訳では置き換えられない役割があるはずです。私は、ことばの重要で本質的な役割が言語教育の場で忘れ去られ、道具主義的な教育が行われていることに問題意識を抱き、日本語教育が何を目指し、どう在るべきなのかを明らかにしたいと考え、研究に力を注いでいます。

研究について

日本語教育は何のためにあるのか

ことばは意思疎通のツール、とよく言われますが、それ以外にも重要な役割を持っています。たとえば、私たちは、頭の中でものを考える時もことばを使っています。人と人を繋ぎ、他者と協力して一緒に何かをしたり、社会をつくる基盤になるのも、ことばです。

そのことを踏まえて、何のために日本語教育を行うのかを考えると、もちろん日本語を使いこなせるようになることも必要ですが、決してそれがゴールではないと思います。言語の知識やスキルを身に付けた上で、日本語を使って深く思考し、人とつながり、よりよい社会をつくっていくことこそ、日本語教育が目指すべきゴールではないか。私はそう考えています。

そして、そうした日本語教育を実践する手法として、現在取り組んでいるのがCritical content-based instruction(CCBI、内容重視の批判的言語教育)の研究です。外国語の教育は、ほかの分野の教育に比べて、自分が当たり前だと思っているものとは異なる文化や言語、思考に触れる機会が多いという特徴があります。自分の「当たり前」を捉え直す、批判的な思考を身に付けるチャンスがとても多いのです。その特徴を生かし、ことばの教育を通して、批判的なものの見方や考え方を養うことを目指すのがCCBIの考え方です。
加えて、ことばで人と人が繋がり、社会をつくることを考えていく時、価値観の違いをどう乗り越えるかという問題が生じます。ことばの教育では、自分と他者の違いに目を向け、対話することで平和をつくっていく取り組みもしていくべきだと考えています。ことばを通して何を実現し、どのような社会を構築していこうとするのか。それを深く考えることを最も重要なテーマとして、ことばや日本語の教育に関する研究を進めています。

共生社会のヒントは地域の日本語教室

日本語教育に関してもう一つ取り組んでいるのが、日本語教育の政策の動向、政策サイクルなどについての研究です。
2019年、「日本語教育の推進に関する法律」が公布・施行され、外国人に対する日本語教育は、国、地方公共団体、事業主の責務と規定されました。この法律を機に、今、国や地方公共団体で、日本語教育に関する政策的な動きが非常に活発になっています。

一方で、国の政策が都道府県や市町村に展開される過程で、何が起こり、現場でどんな課題が生じるのかについては、これまでほとんど研究されていませんでした。そうした政策のミクロ・マクロリンクがどのように起きているのか、日本語教育政策と社会が互いにどのような影響を与え合っているのかに注目し、インタビュー調査を行ったり、関連する言説の分析などを進めていきたいと考えています。

また、日本語教育推進法では、日本国内における日本語教育の目的を“多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現”であると明記しています。今、日本国内の日本語教育の大きな担い手になっているのは、地域の日本語教室です。そこでは、日本語を学びたい非母語話者(外国人)が、日本語のスキルを学ぶだけでなく、日本人や日本語が堪能な人と相互に接点を持つことができます。その“接点を持つこと”こそが重要で、日本語が上達すること以外に、「困ったらあの人に相談できそうだな」「日本語はうまく伝わらないけど、この人とおしゃべりするのは楽しいな」といった関係性がつくられることに、日本語教育による共生社会実現のヒントがあるように思います。そこで、地域の日本語教室に焦点を当て、どのようなことが学ばれ、現場で何が起き、それが共生社会とどのように関係しているのかについても、研究を進めているところです。

今後の展望

人と人を繋ぐ日本語教育は社会の責務

「多文化共生は、非母語話者(外国人)が日本語を使えるようになりさえすれば、実現できる」。そう思い込んでいる人が多いのですが、そんなことはありません。日本語教育が日本語の知識やスキルを学ぶだけのものなら、教育が実を結ぶかどうかは本人の努力次第、ということになるのでしょう。しかし、日本語教育が人と人が繋がり、共生社会をつくるためのものと考えると、私たち日本語話者側の関わりや変化も求められます。
実は今、日本には、日本語を勉強したいと思いながら学べてない人が何万人もいます。また、日本語はできるけれど日常生活で日本語を使う機会がない人や、日本に住んでいながら、日本人と一切接点を持たず、日本語以外の言語文化コミュニティの中で生活が完結している人も大勢います。そうした人たちと日本語話者を繋ぐ日本語教育が、外国人も日本人も安心して暮らせるコミュニティづくりには欠かせません。平和で、一人ひとりが自分らしく、幸せに生きていける社会を創出するために、ことばの教育がどのような役割を担うことができるのか。これからさらに研究を深め、理論化していきたいと考えています。

教育

学生に意識してほしい3つのC

私のゼミでは、「社会を今よりちょっとだけマシにしよう」を合い言葉に、学生が社会と積極的に関わりながら学びを深めています。他学科や学外の組織とも連携し、これまで、障がい者アートと地域づくり、食の多様性など多様なテーマに取り組んできました。

さまざまな活動をする中で、学生には3つの“C”を意識してほしいと思っています。ひとつ目はcritical(クリティカル)であること。これは、自分が当たり前に思っていることに対して「別の視点があるんじゃないかな?」と批判的に見る姿勢を持つという意味です。ふたつ目はcreative(クリエイティブ)であることで、何かを与えられるのではなく、自分で新たな価値を生み出すことを意識してほしい。そして、最後がconvivial(コンヴィヴィアル)であること。社会教育学者のイヴァン・イリイチのことばですが、人が他者や周囲のもの・環境とどのような関係性を持ち、それらに隷属せず自由に生きていくことができるのかという問題意識を踏まえたことばで、「自立共生的」と訳される語です。

私自身は「今よりちょっとだけマシな社会」として、共生社会の実現ということをテーマにしています。それを実現するために、学生たちには、前向きに楽しみつつ、多くの人が知的な好奇心を刺激されて「一緒にやりたい」と思うようなアプローチで、自律的・自立的に社会を変える力をつけていってほしいですね。

人となり

小学校の先生から日本語教育の道へ

大学を卒業して5年間、地元の北九州市で小学校の先生をしていました。日本語教育に興味を持ったのは、教員のキャリアを生かして海外に行ってみたいと思ったから。「日本語教師だったら、明日からでもなれるでしょ」と軽く考えて、勉強せずに日本語教育能力試験を受けたら、見事に不合格でした(笑)。それをきっかけに、日本語教育を仕事にするなら本気で勉強しようと思い、教員を辞めて大学院に入りました。

大学院在学中に2年間ベラルーシで日本語教育に携わり、その後、経済産業省系の財団法人で、外国人材の日本語教育に関わることになりました。ちょうど、経済連携協定に基づいて、初めて東南アジアの国々から看護師や介護福祉士候補者を受け入れた時期で、前例のない事業に携わるのはとても面白かったです。そこで海外からの研修生の日本語教育に携わって分かったのは、日本語がそれほどうまく使えなくても、みんな普通に仕事はできているということでした。むしろ、日本語教育はいらないんじゃないか、と受け入れ企業や研修生本人にも言われました。ただ、研修生がつたないながらも日本語で周りとコミュニケーションを取っている職場は、外国人の離職率が低いことも分かってきた。そのあたりから、日本語教育とは何かをあらためて考えるようになり、今の研究に繋がっています。

自然豊かな長野での暮らし

今でこそ「対話」とか「共生」とか言っていますが、学生時代はバレーボール部で、「強さがすべて」みたいなめちゃくちゃ体育会系の人間でした。大学時代からは裏方に回り、試合ごとにスパイクやブロックのデータを集計する技術統計判定員をしていました。上級判定員という国際資格を日本で初めて取りました。就職せずに日本代表チームのアナリストにならないか、という話もあったんですよ。その時は「地元で先生になるから」と断ったのですが、やっておけばよかったなあと今になって思うことがあります。

好きなものは徐々に変わっていくタイプで、20代から30代はウイスキーにハマっていました。特に、スコッチウイスキーの聖地であるアイラ島のシングルモルトが好きで、たくさん集めていました。その次にハマったのが寿司。東京はもちろん、出張先でもお店を開拓したりして、外食はほぼ寿司という時期もありました。
昨年、首都圏から長野県内に引っ越したこともあって、今は飲み歩きや食べ歩きはしなくなりました。その代わり、自宅で漬物を漬けたり、梅干しをつくったりして楽しんでいます。自宅の周りには鳥や虫がたくさんいて、この前は家の前を大きな鳥が歩いていて驚きました。「クジャクだ!」と家族で大騒ぎしたのですが、近所の友達に「キジだよ」と教えられました。野生のクジャクっていないみたいです(笑)。

―読者へのメッセージ―

私たちはつい、ことばは意思疎通のためにあると考えてしまいますが、それはことばの役割のごく一部に過ぎません。みなさんにも、ことばを学び、使うとはどういうことなのかを、あらためて考えていただけたらと思います。また、多様な人とともに生きる社会をつくるには、“意思疎通のため”“必要なこと”だけではなく、実は“用事がなくても話す”ということがとても大事だと思っています。みんなでもっとことばを使っておしゃべりして、対話的に世の中をつくっていきましょう。

取材日:2023年8月