第45回 比較文学(日韓比較文学比較文化)人間科学部(教養教育) 李 賢晙 教授
日本文化の文脈から
舞踊家・崔承喜(チェ・スンヒ)
を読み解く
人間科学部(教養教育) 教授
李 賢晙HyunJun Lee
宇都宮大学国際学部国際文化学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程満期退学。博士(学術)。宇都宮大学非常勤講師、国士舘大学非常勤講師、小樽商科大学准教授などを経て、2021年4月より現職。著書『「東洋」を踊る崔承喜』(勉誠出版、2019年)が第42回サントリー学芸賞(芸術・文化部門)を受賞。
戦前の日本で一世を風靡した朝鮮の舞踊家・崔承喜。日本統治下の朝鮮で生まれ、日本でモダン・ダンスを学んだ崔は、歴史に翻弄されながらも、時には政治を利用しながら世界中で舞踊公演を行い、自らの芸術を追求しました。激動の時代をたくましく生き抜いた崔を研究対象とし、戦前の日本文化における崔の在り方、戦前戦中の日本外交と崔の関わりについて、日韓比較文学・文化の観点から研究を続ける李教授の研究を紹介します。
研究の背景
日朝や世界で活躍した“新しい女”
崔承喜(チェ・スンヒ/さい・しょうき、1911~1969)は、戦前の日本で活躍していた朝鮮出身の舞踊家です。日本統治下の朝鮮で生まれ、1926年に来日してモダン・ダンサー石井漠の弟子となりました。その後、日本を拠点に舞踊活動を展開し、彼女をモデルにした映画『半島の舞姫』が制作されるほど人気を博した立志伝中の人です。その活躍の場は日本にとどまらず、朝鮮、中国、台湾、戦火が広がる直前のヨーロッパ、戦争から逃れてきた芸術家が集まるニューヨーク、さらに南米大陸に至るまで、世界各国に広がり、国際的にも高い評価を受けました。 崔は、時には日本の軍国主義的プロパガンダに協力する一方、それを舞踊家としての飛躍の機会として利用するしたたかさも持っていました。そうした崔の在り方は、私が学生時代から研究していた「近代文学における“新しい女”」の系譜に連なるもので、研究対象として魅力に富んだ存在です。また、崔が弟子入りした石井漠の舞踊研究所は、本学武蔵野キャンパスと同じ武蔵境の地にありました。そうしたご縁も感じつつ、戦前の日本文化の中で大きなものを背負いながら芸術を追求した崔の活動を、資料に基づいて読み解く実証研究を行っています。
研究について
戦前日本における崔の芸術活動を実証研究
-「利用され、利用する」生存戦略-
崔承喜の戦前の軌跡をたどるため、私は、日韓はもちろん、アメリカ、フランスなどでフィールドワークを実施し、膨大な資料に当たって実証研究を進めてきました。そこで見えてきたのは、政治や状況に利用されながら、自らもそれを利用していくしたたかな女性の姿です。
たとえば、崔は、朝鮮人の姓名を日本式の氏名に変えさせる創氏改名の時代に、「崔承喜」という名前を変えることなく、日本では「さい・しょうき」、朝鮮では「チェ・スンヒ」として活動していました。それを可能にした最大の要因は、彼女の芸術を愛する人々によって構成された崔承喜後援会の存在です。この後援会には、川端康成や菊池寛といった著名な文学者、左翼系ジャーナリスト、東亜日報など朝鮮系新聞社の社長、さらに軍人や軍国主義を賛美するジャーナリストまで、主義主張が異なるさまざまな人が参加していました。彼女はその中で、軍国主義にも朝鮮独立運動にも傾きすぎず、あえて“宙づり”になることで、ある程度自由に動ける立場を確保することができたのです。
また、日本が戦争に突入した後、崔は軍に協力し、慰問のため舞踊団を連れて中国に渡ります。韓国では、そうした行動が批判的に評価されているのですが、一方で、それまで廃れていた朝鮮の伝統舞踊を崔が掘り起こし、一つの芸術領域として定着させたことは、朝鮮文化への彼女の大きな貢献とも言えるでしょう。イデオロギーの側面だけで捉えてしまうと、その芸術や生き方を正しくすくいあげることができないのが、崔承喜という人物なのです。 複雑な時代において、崔がどのように自分の芸術を成り立たせていたのか、資料を通して読み解いていく中で、華やかさの中で悩み、葛藤しつつ、戦略的な自己表象で戦っていく女性の姿が見えてきました。過去の「崔承喜論」とは一線を画す、そうした私の研究成果をまとめ、2019年に『「東洋」を踊る崔承喜』を出版しました。
-膨大な資料と格闘した日々-
崔承喜は文学者でも音楽家でも画家でもありませんから、著作や楽譜など本人が残した資料はほとんどありません。また、崔の芸術活動について、伝記的に書かれた作品はあるものの、資料に基づいた実証研究はほとんど行われてきませんでした。そのため、私の崔研究は資料を一から探すところからスタートしました。
まず、1959年に出版された高嶋雄三郎による評伝や、韓国の研究書を隅から隅まで読み込み、そこから拾い上げたヒントを元に、日本の文化人が書いた批評、映画、写真、絵画に至るまで、幅広いジャンルの資料に当たっていきました。
膨大な資料を調査する過程で、特に印象に残っているのが、梅原龍三郎が崔をモデルに描いた水彩画「巫女の舞」を見つけた時のことです。梅原が崔をモデルに絵を描いたことは、高嶋雄三郎の評伝の中で簡単に触れられているのですが、どんな絵なのかが分かる資料は見つかっていませんでした。大学院時代、一夏かけて国立近代美術館に所蔵されている膨大なカタログ(展覧目録)を一冊ずつ調べ、ようやく図版として収録されているカタログを見つけた時は、涙が出るくらい感動しました。 崔の研究を始めた当初の私は、どこで何を探すべきなのかも分からず、茫洋たる海に糸を垂らして、何の魚が釣れるか分からないような状態でした。資料探しは無謀にも思えるような地道な作業でしたが、その苦労があったからこそ、大きな魚を釣り上げることができたと思います。学生時代から、実証研究は「足で稼ぐ」と先生方に教ってきましたが、本当にその通りだと実感した瞬間でした。
今後の展望
世界公演戦略と日本の文化外交の関わりを追究
現在は視線を海外に向け、欧米における崔承喜の世界公演戦略と帝国日本の文化外交との関わりに注目し、崔の舞踊活動がはらんでいた政治性を追究しています。
日中戦争が始まった1937年から3年間にわたり、崔は欧米や南米を巡って数多くの公演を行っています。当時、国際社会で孤立を深めていた日本は、植民地支配が正当なものであることを各国にアピールする必要がありました。国境を超えて人々を魅了する高い芸術性を持ち、かつ“被植民者の芸術家”だった崔は、帝国日本を宣伝するのにうってつけの存在だったと言えるでしょう。崔は、行動が制限される時代の中で、また被植民者として生きる中で、朝鮮舞踊家として自分の芸術を発展させるため、この海外公演を積極的に受け入れました。そして、海外での3年間で舞踊家として成熟し、舞踊演目を増やして帰国しています。帝国日本の宣伝を目的とした海外公演で、植民地である朝鮮の舞踊を進化させたところに、政治的に利用されながらも逆に利用していた崔の戦略がうかがえます。
こうした崔の海外における舞踊活動の背景や狙い、さらに崔が背負っていた役割について研究を深めようと、欧米でのフィールドワークを継続的に行っています。昨年はパリに赴いて当時の資料を調査しましたが、現地での報道ぶりは想像以上で、素晴らしい資料にも巡り合うことができました。戦前戦中の日本の文化外交の中で、崔自身は自らをどう捉え、どのように振る舞っていたのか、今後さらに調査を進め、より具体的に明らかにしていきたいと考えています。
▲2022年フィールドワーク(ニューヨーク)
▲2023年フィールドワーク(パリ)
教育
“上滑り”しない韓国文化理解のために
現在、韓国語、近代韓国文学、日韓文化交流史などの授業を担当しています。
ここ数年、本学では第2外国語で韓国語を選択する学生が増えています。今の若者は、“冬ソナ”世代の親の影響で、幼いころから韓国語や韓国文化に親しみ、K-POP、コスメ、料理、ドラマなどさまざまな領域で韓国の大衆文化が広がっています。しかし教育者としては、興味の入口はポップカルチャーであっても「それだけ」で終わらないよう、文化の基礎である語学をしっかり学んでほしいと考えています。教科書だけでなく、歌、映画、ドラマなども教材に利用し、「読む・聞く・書く・話す」の4要素が身につくよう、アクティブラーニングを重視した実践的な指導を行うカリキュラムを組んでいます。 また、全学教養ゼミナールなどの韓国関連の講義では、日朝文化交流史に関する知識だけを教えるのではなく、学生自身が当時の資料や原典(新聞、雑誌、小説、詩など)をじっくり読み、その余白や行間を解釈し、二次資料に繋がる「読みの取っかかり」のヒントをつかんでもらうよう工夫しています。私の授業が、学生が自ら学ぶ楽しさに気付き、同時に学問の難しさ、コツコツ身に付けることの大切さを学ぶ場になればと考えています。
人となり
朝鮮の楽器・長鼓を学生と一緒に習いたい
今年1月、授業の一環として、武蔵野キャンパスの雪頂講堂で朝鮮舞踊鑑賞会を開きました。プロの舞踊家の方を招いた公演は学生にとても好評で、裏面までぎっしり感想を書いたリアクションペーパーが寄せられて、影響の大きさに驚きました。学生だけでなく、私自身も、崔承喜がパリで作った「長鼓(チャング)の踊り」をアレンジした舞踊を見て、韓国の長鼓の音やリズムにすっかり惚れ込んでしまいました。朝鮮舞踊は華やかで動きが大きく、心の動きに合わせて踊る舞踊ですが、そこに長鼓が加わることで、心と体のリズムがさらに重なり、響き合う感覚を味わえるのがたまらない魅力ですね。今年は学生たちに声を掛けて、長鼓を学生と一緒に習う機会を何とか作りたいと思っています。
論文で煮詰まったらランニング
これは研究者に共通することだと思うのですが、自分の思考に深く入り込んで論文を書いていると、心身ともにかなり追い込まれます。その状態ではアイデアも浮かばなくなるので、気分転換を兼ねてジムでランニングをするのが趣味になりました。手塚治虫は逆立ちして漫画のアイデアを考えたそうですから、それと似ていますね。普段は時速7㎞ペースで30分、考えがまとまらない時は1時間以上走っていることもあります。いつかハーフマラソンに挑戦したいとこっそり思っているところです。 最近は、ホームセンターでの観葉植物探しも趣味に加わりました。気に入ったものを買って自宅で育てているのですが、なかなか難しいですね。去年買ったシクラメンは、少し元気がなかったので、いろんな栄養を与えて「頑張って!あなたは大事な存在だよ」と声を掛けていたら、元気が戻ってきました。やっぱり植物を育てる時も、愛情が大事なんです(笑)。
―読者へのメッセージ―
異文化「理解」とよく言われますが、たとえ異なる存在を「理解」はできなくても、お互いの存在を認めていく姿勢を私たちは持つ必要があります。文化や歴史を知る上で、語学はとても重要な手段です。学生には、韓国語の学習を通して、好きなものだけを吸収する上滑りの文化理解ではなく、異なるものを見つめ、受け入れようとする姿勢を身に付けてほしいと願っています。日韓両国の間には、長年政治的に解決できないわだかまりが存在しますが、お互いに相手を知ろうとすることで見出される人間同士の繋がり、文化や社会への理解を、教育や研究を通して広げていきたいと思っています。
取材日:2024年3月