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学問の地平から 教員が語る、研究の最前線

第50回 批判的応用言語学・批判的異文化コミュニケーション学
グローバル学部 グローバルコミュニケーション学科 オーリ リチャ 准教授

すべての人が尊重され、
自分らしく生きられる日本社会の実現をめざして

グローバル学部グローバルコミュニケーション学科 オーリ リチャ 准教授

オーリ リチャOhri Richa

2000年よりお茶の水女子大学、お茶の水女子大学院人間文化創成科学研究科博士前期・後期課程で学ぶ。千葉大学 国際未来教育基幹特別語学講師を経て、2024年4月より現職。専門は「批判的応用言語学」「批判的異文化コミュニケーション学」「クリティカルペダゴジー」「大学英語教育」「日本語教育」などで、社会貢献活動や絵本作家としても活動している。

10代の頃から先端技術とシンプルな生活が共存する日本への憧れを抱いていたというオーリ リチャ准教授。留学のために来日して20年以上経つ現在も日本への「愛」は変わりません。現在、日本語を母語としない外国人と日本人が力を合わせて活気がある地域社会を創っていくために、「多文化共生・異文化コミュニケーション」の視点からオープンな日本社会を実現する、多彩な教育研究活動を積極的に展開しています。

研究の背景

「WALKMAN」と「フーテンの寅」が共存する日本

なぜインドで生まれ育った私が日本で異文化コミュニケーションや言語教育の研究をしているのか? そのきっかけは高校時代に日本への憧れの気持ちを抱いたことにあります。当時の日本はHONDAやSONYに象徴される世界に冠たる技術大国で、音楽好きの私はヘッドフォンステレオのSONY「WALKMAN」を愛用していました。日本の技術と経済成長は世界を驚嘆させ、そんな日本から学ぼうとインドの書店にも日本人の労働文化や規律、美意識に関する書籍が並んでいたことを覚えています。

一方で映画『男はつらいよ』シリーズで描かれた「フーテンの寅」とその家族や友人たちの素朴な暮らしぶりもたいへん魅力的でした。「WALKMAN」と「フーテンの寅」、この2つが共存する日本という神秘的な国についてもっと知りたい。そんな気持ちから大学では日本語・日本文化を専攻しました。
大学で日本語を猛勉強した成果もあって、日本の国際交流基金日本語国際センター主催の海外日本語学習成績優秀者研修に招かれ、約2週間の短い期間でしたが初めて日本で過ごすことができました。目にするものすべてが新鮮で、どこへ行っても温かく迎えていただき、想像以上に心地よい気分になりました。そして、「日本に留学して、もっとこの国を体験したい」と強く願うようになりました。

日本語教育に興味を持ち始めた私は、日本語教育を研究できるお茶の水女子大学大学院に進学しました。大学院での研究生活は私にとって大きな転機となりました。大学院の仲間や教授の研究に刺激され、日本で長期滞在者や永住者として生活している外国人と日本人のコミュニケーションという研究テーマにたどり着き、それが現在の研究につながっています。

大学院では日本語母語話者・非母語話者間の日本語能力に起因する不均衡な力関係を主に研究しました。当時、日本語教育の研究者の間では、日本人が「教える」、外国人が「教えられる」という固定的な関係からの脱却を訴える動きが広がりつつあり、相互学習型活動の試みが始まっていました。その活動の狙いは、日本人・外国人の対等な関係の構築であり、共生を目指す活動でした。しかし、私はそれ自体に対する異議を唱えたわけです。果たして、「教える」、「教えられる」という立場を排除することで即対等な関係性の構築へとつながるのかという主張です。コミュニケーションを通して目に見えない形で巧みに発信され、受け入れられる支配的イデオロギーを問題にしなければいけないのではないかというのが私の研究のテーマです。

数年後に出会った日本語教育研究者の先生が発した「なんのためのことばの教育なのか」に深く考えさせられました。その問いは「言葉を学ぶのは発信したいメッセージがあるからであり、人は自分の中にあらゆる言語的なレパートリーを使ってそのメッセージを発信しようとする。しかし、「言葉」そのものに厳格過ぎる教育方法は一つの正解を求めるあまり人々の発信したいメッセージを妨げるのではないか?」という問題提起でした。

日本語教師や外国人学生の頭の中にある「完璧な日本語」の追求も支配的イデオロギーが関係しています。英語を学ぶ日本人が「完璧な英語」を話そうとして挫折してしまうのも、ネーティブ並みの「美しい」英語を話さなきゃ自分の言葉の価値が薄れてしまうという恐れからきています。そういう考えは、英語のネーティブスピーカーの英語が美しいという支配的イデオロギーが背景にあります。しかし、言葉は自分の伝えたいメッセージに価値があり、その形式にばかり注目していると、内容に注意が行き届かなくて、なんのために言葉を学んでいるのかという疑問が湧きますよね。

日本はたしかに暮らしやすい国である一方で、日本人・外国人の共生において課題も多くあります。「その課題とどう向き合えば良いか。」と考えたのが私の研究の出発点です。

研究について

学生と共に立ち上げたプロジェクト「New Face of Japan(NFoJ)」

武蔵野大学に着任したのは2024年度ですが、前職の国立大学時代から研究活動と並行して多様なルーツを持つ人々がともに暮らす日本社会のあるべき姿について考え、誰もが生きやすい社会を創るための社会活動に取り組んできました。それが2019年に学生と共に設立した多様性とインクルージョンを推進する団体「New Face of Japan(NFoJ)」です。New Face of Japanでは、次のような活動を行っています。l .多様なルーツを持つ人々が共に暮らす日本社会のあるべき姿について考え、より包括的な社会の実現。2.日本に暮らす多様なバックグラウンドを持つ人々の声に耳を傾け、彼らの経験や課題を理解。3.教育機関と連携し、ワークショップを開催。例えば、芝浦工業大学柏中学高等学校では中学生と高校生を対象に「日本人って誰のこと?」というテーマで、「日本人」のイメージや人のカテゴリー化の問題について議論するワークショップや「マイクロアグレッション」をテーマに、無意識の偏見について考察するワークショップを実施しました。これらのワークショップを通じて、参加者に新たな視点や気づきを提供し、多様性に対する理解を深める機会を作っています。また、社会の多様性とインクルージョンに関する啓発活動や、教育リソースの提供も行っています。

NFoJの活動は、日本社会がより開かれた、多様性を受け入れる社会へと変化していくことを促進することを目的としています。国籍、文化、外見、ジェンダーなどの違いを超えて、すべての人が尊重され、自分らしく生きることができる社会の実現を目指しています。

▲活動の詳細はInstagramへ

日本で暮らす日本語を母語としない方々は、常に日本語でコミュニケーションをとることがストレスになってしまうと、結局、母国語コミュニティの人としか仲良くなれない状況が生まれてしまいます。それが悪いわけではありませんが、私自身、多くの日本人との出会いとコミュニケーションを通して自分の世界を広げてきましたので、外国籍の多くの方々にはもっと日本社会の一員として活躍してほしいという願いがあります。また、急速に少子高齢化が進む日本では、今後、外国人と日本人が協力して活気あふれる地域社会を作っていくことが重要になるのではないでしょうか。多くの日本人と共に研究に取り組み、地域社会での生活を楽しんでいる私はそんなことを思いながら、日々の生活と学生の教育、そして自分の研究に取り組んでいます。

「クリティカル(批判的)」はポジティブな思考法

▲論文も、絵本も、テーマは似ている!

私の研究分野は、「批判的応用言語学(critical applied linguistics)」、「批判的異文化コミュニケーション学(critical intercultural communication studies)」、そして「クリティカルペダゴジー(critical pedagogy)」にまたがっています。これらの分野は、従来の考え方や方法論に対して批判的な視点を持ち、新たな洞察を得ることを目指しています。

具体例を挙げてみましょう。現在、TVなどのメディアで「日本礼賛」の番組が頻繁に放送されています。そうした番組に出演している芸能人やコメンテーターのコメントには決定的に「クリティカル(批判的)」な観点が欠如しており、結局「日本すごい」という一言で終わることが多いです。もちろんほんとうに「すごい」ことを「すごい」と称賛することも大切です。しかし「日本はすごい。それでよし!」という自己完結に終始してしまうと実はそこに存在する「課題」を直視しないことにつながります。クリティカルシンキングによって「批判的に」課題を見出すことは、より良い社会環境を目指すスタートラインとなるのです。

今後の展望

「多文化共生・異文化コミュニケーション」の議論を深める

来年度からは武蔵野大学で私のゼミがスタートするので、本学の学生にもNFoJの活動に参加してもらいたいと思っています。今年度、私が担当している講義で学生にプレゼン発表をしてもらっていますが、毎回学生たちの斬新な発想や視点に驚かされています。今後、ゼミやNFoJの活動にそうした自由な発想を存分に生かしてもらいたいと期待しています。

私自身の研究では日本社会において「多文化共生・異文化コミュニケーション」に対する解像度を高めることが大きな目標となっています。今ではこの言葉は研究者だけでなく、一般の人々の間でも盛んに使われています。しかし、正確に何を意味するのか、その根底にどのような理念があるのかについて的確に説明できる人は多くありません。なぜなら、根底にあるはずの「多文化共生・異文化コミュニケーション」という理念に関する議論が未だ乏しいからです。その結果として日本の地域社会においては「多文化共生・異文化コミュニケーション」を目指す活動の目標が「みんな楽しく仲良くしましょう」という漠然としたものになりがちなのが現実です。「楽しく仲良く」はとても素敵なことなのですが、多文化共生や異文化コミュニケーションというのは、そんなに簡単なことではありません。それは日本人・外国人両者にとって「痛み」を伴うプロセスであり、健全な社会を構築するためには批判的な視点からそこにある「課題」に目を向けることが第一歩となります。そう、「多文化共生・異文化コミュニケーション」にとって「批判的な思考」は必要不可欠なものなのです。

今は、多文化共生や異文化コミュニケーションの枠組みを超えて、日本社会に住んでいる一人ひとり(日本人・外国人を問わず)を社会的行為者として捉え、社会参加を促進するような教育の取り組み(主に、ペダゴジー)に関心があります。その背景には複言語・複文化主義の概念があります。それは、どの個人も複数の言語や文化を持ち、それらを状況に応じて柔軟に使い分ける能力を持っているということを指しています。この概念は、多様な言語や文化の共存を前提としており、多文化共生の理念と近いものです。また、言語や文化の違いを橋渡しする「仲介」の概念にも興味があります。これは、異なる言語や文化背景を持つ人々の間の理解を促進し、共生を支援する役割を果たします。

教育

教員と学生は対等な人間同士でありたい

ずっと誰もが生きやすい日本社会になってほしいと考えてきました。そのため大学での教育研究を通して、未来の日本を担う学生と共にその理想について話し合い、具体的にイメージできるような学びの場を作っていきたいと思っています。

授業では毎回「何か」を持ち帰ってもらいたいと思っています。楽しかったでもいい、テーマへの関心やさらなる問いが生まれたならもっといい。一回一回の授業に参加できてよかったと思ってもらえるような授業になるよう、毎回、試行錯誤しています。

私のポリシーとして学びの場では教員と学生が、一人の人間同士として対等であるべきだと考えており、授業でも「教えてあげる」ではなく、一緒に考え、知識を共有するスタンスを心がけてきました。実際、私自身も学生たちから多くのことを学んでいます。できれば学生には「リチャ先生」ではなく「リチャさん」と呼んでほしいのですが、日本の学生にとって教員を「さん」付けで呼ぶことに心理的抵抗があることも承知しています。そこは無理強いしませんけれど、私のゼミやNFoJに参加する学生はぜひ「リチャさん」と呼んでください。対等な立場で議論できる学生たちと一緒に楽しく、明るい未来を想像しながら「今を創造」していくことが私の望みであり、何よりの楽しみです。

人となり

「絵本」「エミネム」「料理」

▲先生著者の絵本「ちいさな手」

私の趣味は「絵本」を楽しむこと。自宅には約380冊の絵本のコレクションがあります。最初は子どものために集めていましたが、やがて絵本の魅力に自分自身が魅了され、挙げ句の果てには絵本の著者になりました。絵本は、哲学者が何千語、何万語を費やして語っていることを平易な言葉と絵で子どもにもわかるように語りかける素晴らしいものだと思っています。

若い頃からの趣味と言えば、やはり音楽を聞くことでしょう。私は若い頃からヒップホップアーティストのエミネム(Eminem)の大ファン。社会への問題提起に満ちた彼の歌詞は、引っ込み思案だった若い頃の私に「自分の気持ちや意見をみんなと共有してもいいんだ!」と大きな勇気を与えてくれました。今も毎朝のランニングではイヤホンでエミネムの曲を聞いて、日々の活力としています。

そのほか料理を作ることも好きです。特に体に良いマクロビオティク料理に興味があり、YouTubeの料理サイトを参考に世界各国の料理を自分流にアレンジするのが楽しいです。料理中には激しいエミネムの音楽はちょっと合わないので(笑)、ジャズをBGMにしていることが多いですね。

▲先生の絵本コレクションの一部①
▲先生の絵本コレクションの一部②
▲先生手作りのマクロビ料理①
▲先生手作りのマクロビ料理②

読者へのメッセージ

何度も繰り返しますが、私は日本がより多様で様々な価値観やライフスタイルを持った人々が自分らしく生きていけるような社会になることを目指して、教育・研究活動を続けてきました。学生の皆さんにもっとも伝えたいことは「世界は広い」ということ。自分にとっての「常識」「あたりまえ」に囚われてしまうとその「広がり」が見えなくなります。

それと同時に学生に限らず日本の方々にもっと「日本の良さ」に気付いて欲しいです。バブル崩壊後の「失われた30年」によって、日本の皆さんはすっかり自信を失われたように思います。一方、その反動として、先ほど申し上げた「日本礼賛」番組が流行したりしました。

私は日本文化の良さはシンプルで、ソフィスティケート(洗練)されたところにあると思っています。日本への悲観も過度な礼賛もその魅力を見えにくくしているとしか思えません。私は近い将来に再び「世界が日本から学ぶ」時代がやってくると確信しています。そのためにも「多文化共生・異文化コミュニケーション」についてみんなで対話しながら一緒に考えていきたいと思っています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。


取材日:2024年8月